霞み桜 【後編】
源一郎が茫然と呟いた。佳純の科白は彼にも少なからず打撃を与えた。
―私はあなたのお子を産むことはできそうにありません。
そのひと言は源一郎の心の奥底に重い石のように沈んだ。それは佳純がいつまで待ち続けたとしても、源一郎を受け容れるつもりはないという宣言でもあった。
「私はやはり旦那さまに嫁ぐべきではなかったのかもしれません」
続く言葉は更に源一郎を打ちのめした。
彼は震える声で問いかけた。
「佳純はそんなに俺が嫌いか?」
あの色男だが、とんでもない卑劣漢の湊屋伊三郎の方がはるかに魅力があるというのだろうか。
その返事はなかった。佳純が涙を拭き、取り繕ったように明るい声音で言った。
「折角用意した夕餉が冷めてしまいます。今日は旦那さまの好物の鰤(ぶり)を焼きました。冷めない中に召し上がって下さいませ」
「それは愉しみだ」
源一郎は我が身の虚ろな声がどこか遠くから響いてくるような気がした。
料理も裁縫の腕も人並み外れている。佳純は右衛門助が自慢するだけあり、申し分のない妻であった。器量も十人並み以上だし、直参旗本の息女という血筋もある。
そんな妻にただ一つだけ、源一郎が求めても得られないものがあった。
―佳純を抱きたい。
肉欲の交わりだけが男女の愛ではない。心の伴わない交わりはただ虚しいだけ。それが信条の源一郎であっても、この期に及んで、そんな綺麗事だけで納得がゆくものではなかった。
何故なんだ? どうして俺では駄目なんだ。応えてくれ、佳純。あんな人間の屑のような男になら抱かれても、俺では駄目だというのか。俺はお前の良人なんだぞ?
先に立ってゆく妻の後ろ姿に向かって叫びたかったけれど、源一郎はそれを飲み込んだ。それを言えば、佳純は恐らくこの家を出てゆく。佳純にここまで心を奪われてしまった自分に背を向けて、あっさりとすべてを棄てるだろう。
ベタ惚れなのは源一郎の方だけ、佳純はいまだに別れた後も、あの屑野郎に惚れている。いやと、源一郎の胸にこの時初めて疑念が兆した。
自分は別に佳純から話を聞いたわけでもないし、その後の伊三郎の動向を調べたわけでもない。佳純の気性からして、結婚前に伊三郎との関係は清算するはずだと勝手に信じ込んでいただけだ。
しかし、真実、そうなのだろうか? 本当に妻は情人(いろ)ときれいに別れたのか? 源一郎はただ自分がそう信じたいから、都合良く信じただけではないのか。
もしや、佳純はまだ伊三郎とひそかに関係を持ち続けているのではなかろうか。一度兆した疑いはなかなか消えてくれない。
いっそのこと、俣八に頼んで伊三郎のその後を探らせてみようか。いや、人任せにせず自分で伊三郎の現在の女関係を探ってみた方が良いのかもしれない。
そこまで考えて、源一郎は首を烈しく振った。
―何を考えているんだ、俺は。
佳純は我が妻ではないか。良人が妻を信じられずして、どうするのだ。
源一郎は佳純の眼がなければ、頭を掻きむしりたかった。佳純はもう厨房近くの座敷に行ったらしく、姿は見えない。背後でチリチリと季節外れの風鈴が哀しげな音を立てた。
佳純は知らず、微笑んでいた。その視線の少し先に、よちよち歩きの子の手を引いた若い母親の姿がある。母親の方は商家の妻といった風体で、佳純よりは幾分年上だろうか。
今日は中町まで生け花の稽古に行った帰り道である。嫁いでもなお、
―一日中、屋敷にいては息が詰まろう。習い事でも致せば良いぞ。
と、優しい気遣いを示してくれた良人源一郎の言葉に甘えて、佳純は十日に一度、花の稽古に通っていた。
―お優しい旦那さま。
源一郎のことを考えただけで、何故か涙が込み上げてくる。今も道行く幼子を見ている中に、二日前の源一郎とのやり取りを思い出していた。源一郎は子ども好きらしい。祝言の日ですら、主役の花婿にも拘わらず、佳純の二人の姉の子どもたちを抱き上げたり、あやしたりとしきりに構ってやっていた。
源一郎ならば、子煩悩な父親になるだろう。佳純にせよ、いずれ子どもは欲しいと思う。けれど―、遊び人の伊三郎にさんざん穢されたこの身が源一郎のような誠実な男にふさわしいかどうかと考えた時、自信がなかった。
幾ら彼が構わないと言ってくれたとしても、源一郎にはもっとふさわしい、例えば既に亡くなってしまった恋人結衣のような無垢で清らかな娘がお似合いなのではないかと思える。
伊三郎は怖ろしい男だ。名うての遊び人で金もあるし口も上手い。そこそこ美男だから、大抵の女は言い寄られたら、その気になる。あの男は生娘であった佳純を町中で見初めて声をかけてきた。
何の警戒心も持たず男の言うなりになった自分は何と浅はかで愚かで無防備だったことか! 女の身体を知り尽くした伊三郎に口説かれ、出合茶屋に連れ込まれた後、佳純は彼に夢中になった。
彼は女を悦ばせる手管にだけは長けているから、どんな女でも靡かないことはない。ましてやまったく未通の娘であった佳純などを陥落させるなど朝飯前であった。
迂闊にも我が身はつい最近まで、あの男を?伊佐さん?と気安く呼び、自分はあの男のたった一人の女なのだと、あの恥知らずな男の真っ赤な嘘を後生大事な宝物のように守り信じてきた。
その化けの皮が?がれたのは、佳純が伊三郎に別離を突きつけた直後である。伊三郎のような遊び人には自分のような素人娘はつまらないと思っていたのだが、意外にも男の方はまだ佳純の身体に未練があるようだった。
最後にひとめ逢って別れを告げたいと随明寺の絵馬堂前で待ち合わせ、佳純はやって来た伊三郎に切り出した。
祝言が決まったから別れたいのだと。このときはまだ、佳純は彼の正体を知らず、彼には親の決めた許婚がいて、その許婚の父親からは湊屋に多額の融資をして貰っているという打ち明け話を信じていたのである。
だから、自分が潔く身を退くことが伊三郎の幸せにも繋がるのだと信じていた。ところが、である。別れをほのめかされた男は逆上した。
―お前、今になって何を言うんだい。縁談がまとまったからといって、俺をあっさり袖にするのか。
最初は泣きついて縋ってきた男は次第に豹変していった。しまいには、額に青筋を浮かべ、憤怒の形相で佳純に迫った。
―お前ほど身体の相性の良い女はついぞ見かけねえ。俺はまだお前と別れる気はないからな。もし、どうでも俺に見切りを付けるというんなら、お前の亭主になる男に俺とお前のことを洗いざらい全部ぶちまけるぜ。旗本の娘が嫁ぐ先といやア、どうせ似たような武家だろうが。気取り返って気位ばかし高えお侍の旦那があんたの結婚前の行状を聞いて、どうなるかな? 俺がかくかくしかじかでございとぶちまけただけで、破談になるだろうよ。
嘲笑するように言うのに、佳純は言ってった。
―お生憎さま。私の婚約者は私とあなたのことはすべて知っていますから。
―何だって?
このときの伊三郎の動転ぶりには見物だった。こんなときでなければ、笑い転げただろう。
―世の中には、あなたのような恥知らずな男ばかりではないということです。
この広い世間で星の数ほどもいる男と女の中で出逢った縁を大切にしたい。そう言ってくれる誠実な男もいるのだ。