霞み桜 【後編】
「では、一体、どうするつもりだった?」
男が我が意を得たりと滔々としゃべり出した。
「この女のてて親があっしどもの店に借金をしているんでやすよ。これ以上は
貸せねえほど借りた挙げ句、びた一文返そうとしねえ。それで、あっしが主人
(あるじ)に成り代わり、こいつの父親に金を返してくれとまあ、頼みにいって
るって次第でさあ」
源一郎はフムフムと頷いた挙げ句、冷たい眼で男を睨んだ。
「しかし、俺には先刻の様子はどう見ても穏やかに物を頼んでいる風には見え
なかったぞ」
そこで咳払いし、源一郎は更に鋭い視線で男を睨(ね)めつけた。
「お前はこの女を借金の形に連れてゆくつもりだったのではないか?」
図星だったようで、男はハンペンのように白い顔を紅くした。意外に見かけ
よりは悪くないのかもしれない。
「ですがねえ。旦那、女の父親ってえのがこれがまた性悪な商人で。ろくに金
もない癖に、遊廓で派手に遊び回ってるんですよ。うちとこも貸せるだけ貸し
て、ろくすっぽ返してくれねえんだから、主が怒るのもこりゃア仕方ねえでや
しょう。連日、取り立てに行って、それでも明日返すと毎日、やんわりと逃れ
られちゃ、こちとらそろそろ強気に出て耳を揃えて返してくんなと出たくもな
るのが人情というものじゃありませんかい」
仮に男の言い分が真実であるならば、どうやら非は女の父親にありそうだ。
かといって、白昼堂々と女を連れ去る言い訳にはならないが、少なくとも娘と
しては身を売ってでも父親の借金を払う義務と責任があるというのは道理だ。
源一郎は傍らの女に穏やかに問いかけた。
「こいつの言い分に間違いはねえか?」
その時、源一郎は初めて女を間近で見た。年の頃は二十歳前後、漆黒の結い
上げた髪に色白の細面は彼に切ない恋心を思い起こさせた。
―結衣。
彼は心の中で今は亡き恋人に呼びかける。結衣は今年の一月にまだ十七歳の
生命を散らした。盗賊?般若の喜助?一味の引き込みとして大店美濃屋に潜入
した結衣と源一郎が出逢ったのは、ほんの偶然にすぎなかった。
二人は運命に引き寄せられるようにして出逢い、恋に落ちた。結衣は育ての
父、喜助に大きな恩義と愛情を感じており、父のために自ら引き込み役を買っ
て出たのだ。
しかし、生来優しく正義感の強い彼女は美濃屋で働く中に、美濃屋の主人夫
婦や朋輩仲?に情を抱き、彼らを災難に巻き込むことに強い躊躇を憶え始め
た。そして、結衣を執拗に追いかけ回していた美濃屋の跡取り作蔵に拉致され
犯されてしまった。
それでも結衣は傷ついた心身で烈しい雪降りの夜、番屋まで走った。美濃屋
に眼を付けた般若の喜助が押し込みを働こうとしていると告げる、ただそのた
めに自らの生命を懸けたのだ。結果、結衣は亡くなった。
源一郎は今でも雪の止んだ翌朝、番所の前でうずくまるようにして息絶えて
いた結衣の表情を忘れられない。結衣の死因は凍死ではなく、番所まで駆けて
くる最中、転んで作った頭部の怪我だった。生命を脅かすほどの怪我を負いな
がらも、自らの大切な人たちを守るために、わずか十七歳の少女が生命を懸け
たのである。
結衣の死に顔に苦悶は微塵もなかった。声をかければ、すぐにも眼を開きそ
うでもあり、その死に顔に浮かぶのは満ち足りたとでもいえるような微笑だっ
た。
それは恐らく生命を賭して本懐を遂げたことの安らかな気持ちからくるもの
だったのかもしれない。彼女の捨て身の行為で、美濃屋の人々の安全と生命は
確保でき、更に彼女の養父、般若の喜助は獄門送りになることもなかった。
結衣の想い出に耽っていた源一郎はふと我に返った。女もチンピラさえもが
怪訝な顔で彼を見つめている。源一郎は小さく首を振った。お役目の途中に、
何たる失態だ。彼はもう一度、穏やかに問いかけた。
「こいつの申し立てに間違いはねえかい?」
女の視線がチンピラと源一郎を忙しなく行き来した。
「残念ながら、すべて事実でございます」
「そうか」
源一郎は女の凜とした潔さに舌を巻いていた。普通、自分の父親のことであ
っても、我が非を容易く認められるものではない。
彼はチンピラに向き直った。
「お前の言い分にどうやら間違いはねえようだが、昼日中から借金の形に娘を
引きずってゆくというのも外聞が悪かろう。マ、親父の責めを娘が負うのは致
し方ないかもしれねえ。とはいえ、それはあくまでも最終的な手段だろう?
俺の方からも一度、その商人とやらに逢って話をしてみよう。要するに、お前
らとしては父親に貸した金が戻ってくれば、それで済む話だろうが」
男は即座に頷いた。
「旦那のおっしゃるとおりでさ。あっしも主も金さえ耳を揃えてきっちりと返
してくれりゃア、何も手荒な真似なんぞしたくはありませんや」
「で、その貸した金は幾らになる?」
「しめて三百両ってところですかね」
「―」
源一郎はその額の多さに愕いた。が、すぐに冷静さを取り戻し、男に頷い
た。
「約束する、俺がこの娘の父親だという男に直接逢って話をしてみよう」
「へえ、そいつはありがてえ話で」
「いかほどであれば、返済の期限を延ばせる?」
男はしばし考え込んだ。
「手前どもの主の意向もありましょうが、まあ、せいぜいが半月といったとこ
ろですねえ。何しろ、返済が滞って長いもんですから」
源一郎は頭を下げた。
「頼む、み月ほど待ってくれぬか」
男が露骨に顔をしかめた。
「とんでもねえ、もうこれまでにさんざん待ったんでさ。み月も待てますか
い」
「北町奉行所同心北山源一郎の名にかけて、必ず支払いは少しずつでもさせ
る」
男がぼんのくぼに手をやって嘆息した。
「仕方ねえ、八丁堀の旦那に頭を下げられちゃ、待つと言わざるを得ませんか
ね。だが、旦那、み月ですぜ、今からきっかり三ヶ月、神無月の終わりには必
ず耳を揃えて返して貰いやす。それが駄目なら、判ってるだろうな、お嬢さん
よ」
しまいの科白は源一郎ではなく、背後の女に投げたものであることは相違な
かった。
「―はい」
消え入るような声が聞こえ、男は源一郎にひょいと腰をかがめた。
「あっしは両替商の肥前屋の用心棒熊次っていいまさあ。旦那、あっしもガキ
の時分から貧しくてねえ、妹は早くに吉原へ身売りしたんですよ。だから、何
もすき好んで女を遊廓に売り飛ばしたいなんぞ思っちゃいやせん。苦界に身を
落とした女の末路はとくと知ってやすから。ただ、約束は守らなきゃいけませ
んや、旦那」
熊次という男、荒んだ雰囲気はあるものの、見た眼よりは話の判る常識的な
男であるらしい。熊次はひょいと身軽に向きを変えると、駆け足で雑踏に紛れ
ていった。
源一郎は改めて女に話しかけた。
「三百両とは、また大金を借りたものだな。それで、返済の方はどうなってい
る? 熊次とやらの申すように、真に滞っているのであろうな」
女はつと顔を上げて、源一郎を見返した。黒い瞳に強い力が宿っている。
「先ほども申しましたように、すべて偽りはありません」
「それで、いかほど返済している?」
これには少しの間があった。女の瞳から急速に力強さが失せた。