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霞み桜 【後編】

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―今度こそ、惚れた女は俺が絶対にこの手で守ってみせる。
 誰もこの女を傷つけさせはしない。この得難い幸せと、その幸せを与えてくれた女を守りたいと強く願った。
 ここのところの満ち足りた蜜月の日々を思い出していると、また顔がしまりなく緩んできそうだ。そこに軽やかな脚音がして、源一郎は慌てて表情を引き締めた。佳純が朝餉の支度ができたと呼びにきたようだ。
 源一郎は言われるがままに別室に赴いた。まだ舅の姿は見えない。新島家で使っている女中が炊き上がったばかりの飯を運んできたところに、右衛門助も姿を見せた。
「おはようございまする」
 源一郎は丁重に義父に対して頭を下げた。
「昨日は面目次第もありません。深酒をしてそのまま眠りこけてしまうとは」
 と、右衛門助は破顔した。
「いやいや、若い時分は多少羽目を外すことも大切。源一郎どのはいささか真面目すぎるところがおありで、儂はそれがいささか心配でしてな」
 女中が出てゆき、佳純が下座に座る。室内は当主右衛門助が上座、それよりやや下方に源一郎、更に下座に佳純という配置になった。
 佳純が櫃の蓋を取るや、白い湯気がもうもうと立ち上った。手慣れた様子で飯を茶碗に盛り、丸盆に乗せて父のところまで運ぶ。それから源一郎にも同じようにした。
 茶碗を差し出す時、佳純の指と源一郎の指が触れ合い、彼は場所柄もなくカッと身体が熱くなった。どうも、この妻に少し触れただけで、彼の身体は過剰反応するらしい。
 佳純の方も何か感じたものか、頬を少し上気させている。そんな若夫婦の初々しい様子を満足げに眺め、右衛門助は笑顔で言った。
「不束な娘でお恥ずかしうござるが、この娘はこういった家事は手慣れておりましてのう。二番目の娘は十六で嫁しましたゆえ、当家に残ったのは当時、十四であった佳純と二つになったばかりの倅と二人だけになり申した」
 それからの四年間は、佳純が家の中のことを切り盛りしてきたのだと、右衛門助は誇らしげに語った。千五百石の新島家はそれなりの格式を誇る直参であり、使用人もそこそこはいる。だが、佳純の話からすると、内証は千五百石にはほど遠く、直参旗本の体裁を整えるだけで精一杯だという。
 泰平の世が続いたこの時期、武功を立てるのが本来の役目のはずの武士は用なしの存在と化してしまった感があった。殊に右衛門助のように無役の旗本は尚更である。
 それでも旗本の体面だけは維持しなければならず、苦しい内証でそのための費用を捻出する必要があり、家計が火の車といった武家は結構多かった。
 愛娘が良人と共に初めて実家に来たのがよほど嬉しかったのか、普段は無口な右衛門助はまだ酔いが続いているかのようによく喋る。
「それにしても、佳純は果報者だ。源一郎どののように立派な婿どのを持つことができ、それがしも鼻が高うござるよ」
「義父上にそのように過分にお褒め頂くと、穴があったら入りたい心地になりますね」
 源一郎が調子を合わせるのに、右衛門助は生真面目に言った。
「いやいや、源一郎どのはいずれは北山家の家督を継がれる御身。聞けば、兄君は来年には寺社奉行に昇られるとの由。源一郎どのも先が楽しみでござるな」
「父上、そのような話はお止め下さい」
 佳純がたしなめるように言った。確かに聞きようによっては、兄の引きで弟の源一郎の出世も期待できるとも理解し得る言葉ではあった。
 源一郎は内心の不快感はおくびにも出さず、にこやかに言った。
「俺は兄とは違います。北山の家を継ぐには継ぎますが、兄のような栄達は望むべくもないでしょう。義父上の折角のご期待には添えそうにはありませぬ」
「いや、人間たるもの、先は判らぬぞ。そのためにも、佳純。そなたは一日も早う源一郎どののお子をあげることじゃ」
「―」
 佳純が息を呑む気配がした。右衛門助が吐息をついた。
「武門の家にとりて、子は宝。北山家は幸いにも源一郎どのがおわしたゆえ、存続が叶い申そうが、世継ぎがおらぬばかりにお取り潰し、断絶になる家も昨今は多うござるでな」
 右衛門助は佳純を叱咤するように言った。
「佳純も武家に生まれ育ちしおなごであれば、家を継ぐ男子出生がいかに大切なことかは身に滲みておるはず。源一郎どのの兄君初め、皆がそなたの懐妊を待ち詫びておる。この儂も北山家ほどの名門の血を受け継ぐ孫をこの腕に早う抱いてみたいものよ」
 源一郎は気遣わしげに佳純を見た。案の定、佳純は真っ青になっている。涙ぐんでさえいるのか、うつむいていた。
 娘の異変にも頓着せず、右衛門助はまだ上機嫌で喋っている。そこで流石に義父も娘の様子が妙なのに気付いたらしい。
「どうしたのだ、まさか、そなたら夫婦仲が上手く行っていないのか?」
 二人の様子はどう見ても仲睦まじい新婚夫婦そのものではあるが、男女の事は当人同士しか判らないこともある。俄に不安げになった右衛門助に源一郎が素早く言った。
「義父上、子は授かり物にございますれば、そのときが参れば授かります」
「うむ、それはまあ、そのとおりではあるが」
 急に重たくなった雰囲気を変えるために、源一郎はわざと話題を変えた。それから早々に、二人は新島家を後にした。
 帰宅後、佳純はずっと沈んでいた。少し早めの夕餉の膳が並んだ時、源一郎は自室でうたた寝をしていた。飯の炊ける良い匂いに眼が覚め居間にゆけば、佳純がぼんやりと軒下に掛かった風鈴を眺めている。
 それは絵になる光景ではあったけれど、源一郎が眼を止めたのはそこではなかった。佳純の眼から涙が溢れ、すうっと頬をつたい落ちていったからだ。
「―佳純」
 呼べば、佳純は慌てて手のひらで涙をぬぐい、笑顔を拵えた。こんなときでも気丈に微笑もうとする妻が愛おしい。思わず抱きしめてやりたい衝動に駆られたものの、佳純がその気になるまで待つと初夜に約束した手前がある。源一郎は伸ばし掛けた手を仕方なく引っこめた。
「気にすることはないぞ」
 言ってやると、最初は本当に何のことか判らなかったようである。源一郎も微笑み、佳純の傍らに立った。
「義父上の話のことだ。我らはまだ祝言を挙げてひと月も経たぬ。子の話なぞ幾ら何でも気が早いというものではないか」
 佳純の眼に新たな涙が湧いた。
「あなた、申し訳ありません」
 突如として謝られ、源一郎は眼を瞠った。
「私は北山の家にとっても、あなたにとっても役立たずの女でしかないのですね。実家の父の申すことは道理なのです。子を産めなければ、この家にとって私の存在価値はないのですから」
「そのようなことはない。それに」
 源一郎は躊躇った末、口にした。
「そなたはまだ十代ではないか。これから先、我らにも子が授かることはあろう」
 佳純はその言葉に辛そうに眼を伏せた。あまりにも哀しげなその顔に、源一郎はけして言ってはならぬ言葉を口にしたのだと知った。
 二人の間には依然として男女の関係はないままに日は過ぎていた。
 佳純が涙を宿した瞳でギヤマンの風鈴を見上げた。
「この世は上手くはゆかないものですね。結衣さまが生きておられれば、きっと今頃はもう源一郎さまはお父君になっていたことでしょう。でも、私はあなたのお子を産むことはできそうにありません」
「佳純」
作品名:霞み桜 【後編】 作家名:東 めぐみ