霞み桜 【後編】
源一郎の心に小さな希望の灯が点った。それに、恐らく自分はもう佳純を手放すことはできないだろう。これほどまでに愛おしく守りたいものと再び出逢えたことに、佳純という女との縁をもたらして下された神仏に感謝したいくらいだ。
「今宵はその言葉一つで良い」
源一郎は佳純のやわらかな身体を優しく抱き、その良い香りのする艶やかな髪に顔を押し当てた。
「お優しい旦那さま」
佳純は源一郎の腕の中で辛い恋のすべての想い出を洗い流すかのように泣きじゃくった。
ほのかな梅の香が混じる早春の夜はゆっくりと更けてゆく。
恋情
その日、源一郎は佳純を伴い、妻の実家新島家を訪れていた。本当は前日の夕刻に参上したのだけれど、夕餉を食べてゆくようにと舅に引き止められ、更には普段はあまり嗜まない酒をしきりに勧められてしまった。
源一郎は元々、あまり酒に強くないのである。義父から酌をされてはなかなか断れず、つい杯を重ねる中に、みっともなくも酔い潰れてしまった。
一方、対する義父新島右衛門助は若い時分から酒豪で知られていた。生真面目一方の男だが、何故か滅法酒に強い。右衛門助の酒は飲むほどに上機嫌になり、素面のときとは別人のように明朗闊達になった。
よく酔うと愚痴っぽくなったり怒り出したする人がいるが、そういう類の酔っぱらいと比べれば、まだマシな方だといえる。
とはいえ、下戸に近い源一郎には到底酒豪をもって任じる舅の相手は務まらなかった。源一郎が酔いつぶれて眠ってしまった前で、右衛門助はまだ眼の縁をほんのりとうす紅く染めた程度なのだ。
杯を幾度か重ね、ついにその場に倒れ伏してしまった婿を見やり、右衛門助は大仰に肩を竦めた。
「何と情けなや。これしきの酒で早くも良い潰れるとは」
傍らではらはらしながらなりゆきを見守っていた佳純が呆れたような顔で父を睨んだ。
「お酒に強いからと申して、何も人様に威張るほどのことではございませんよ、父上」
「さりながら、婿どのの兄君であらせられる北山どのはかなり酒にお強いと見えたがのう」
祝言の夜、源五は参列客に次々と酒を勧められた挙げ句、相当に飲んでいたはずだが、最後まで酔いを見せることはなかった。勧められた杯を次々に煽りながらも、参列者の間を回り一人一人に酒を注いで挨拶と礼をしていたものだ。
佳純が首を振った。
「ご兄弟とはいえ、酒が強いかどうかまで似ているとは限りませんよ」
「そのようなものか」
妻に先立たれた右衛門助はこの三女をとりわけ可愛がっていた。久方ぶりに里帰りした娘を右衛門助は相好を崩して見ている。
「それよりも、父上。旦那さまをこのままにしてしておけません。手をお貸し下さいませ」
二人は大柄な源一郎を両脇から支えて何とか奥の客間まで運んで、夜具に寝かせた。
源一郎はその一部始終をまるで夢を見ているような心地で聞いていた。布団に寝かされ、誰かが上掛けを掛けてくれ、優しい手の温もりと感触が頬に触れたような気がする。
「源一郎さま、愉しい夢をご覧下さいましね」
それは紛れもなく彼が愛してやまない新妻の声に違いなかった。彼は愛する女の声を聞きながら、深い底なしの眠りへと落ちていった。
やっと得た最愛の女、その女との暮らしに、源一郎は初めて心からの安息を得て、満ち足りていた。
翌朝になった。こうも深酒をした次の朝というのは大抵、酷い二日酔いに悩まされるものだが、この日は幸いにも辛い頭痛に悩まされることなく目覚めた。どころか、常より、すっきりとした爽やかな心もちである。
源一郎は不思議に思いながらも起き出し、簡単に身仕舞いを済ませた。昨夜は着の身着のままで眠ってしまったようで、支度といっても顔を洗う程度のものだ。足袋だけは佳純が脱がしてくれたらしい。
今日は一日、非番である。そのため、新島家には同心のなりではなく、ごく普通の着物袴で訪れた。彼が気に入っている藍色の着物と濃紺の袴だ。現在、裁縫の得意だという佳純が手ずから彼の新しい着物を仕立ててくれている。布は二人でわざわざ町人町の呉服問屋まで見にいって選んだ。
源一郎は何が良いのか判らないので、佳純が葡萄茶色(えびちやいろ)の単布を選んだ。
―この色はいささか派手ではないか?
源一郎が困惑したように言うと、佳純は笑いながら言った。
―旦那さまはまだお若いのですから、地味な色ばかりでなく少し華やかな色合いもお召しになった方がようございますよ。この色はきっとお似合いになります。
妻に言われ、源一郎は不本意ながらも納得した。佳純は帰宅後から、早速、せっせと源一郎の小袖を縫いにかかっている。新婚初夜を北山家の別邸で過ごした若夫婦は今は源一郎の勤務先である北町奉行所からほど近い役宅で新婚生活を営んでいた。
これまでは夕食も一人で手早く外で済ませることが多かった。だが、今は奉行所での仕事が終わると、定時に帰宅する。いそいそと源一郎が帰り支度を始めると、筆頭与力の新田和馬や他の年嵩の同心たちが意味ありげに目配せし合い、忍び笑いを洩らすのだった。
妻の待つ役宅に帰りたい一心の源一郎には、皆がニヤニヤ笑っているのも気が付かないといった有り様である。
帰宅すれば熱い風呂と温かな夕餉が待っている。いや、何よりも嬉しいのは玄関で出迎えてくれる佳純の笑顔だった。
源一郎は役宅の軒下に切り子細工の風鈴を飾った。それは亡き恋人結衣の形見でもあった。結衣が美濃屋に残した数少ない手持ちの荷物から、源一郎が唯一貰い受けた品である。
三月に風鈴を下げるなどおよそ常識を逸脱しているが、佳純は何も言わなかった。
ある日、源一郎がその風鈴をじいっと見つめていると、佳純が背後から遠慮がちに声をかけてきた。
―旦那さま、その風鈴はよほど大切なものなのですね。
それをきっかけに、源一郎は結衣のことを訥々と話した。むろん、盗賊般若の喜助のことなどは省き、結衣の人となり、大切なことを伝えるために非業の死を遂げたとだけ伝えた。本当は結婚したばかりの妻に前の恋人のことを話すべきではないのは判っていた。けれど、佳純は嫌な顔一つせず、最後まで話を聞いた。
結衣が番所前で亡くなっていた下りでは、佳純は涙ぐんだ。
―結衣さまはきっとそのことを旦那さまにお逢いになって直接お伝えしたかったのでしょう。その一心で雪の中を物ともせずに番所まで走っておいでになったのですね。
源一郎はその後で言った。
―そなたが嫌であれば、この風鈴はしまおう。
大概の女ならば、良人の元恋人の遺品を飾りたいとは思わないはずだ。しかし、佳純は真顔で首を振った。
―よろしいではありませんか。結衣さまというお方、お心の美しい清らかな方だったのでしょう。ここに風鈴を飾れば、結衣さまも歓んで下るかもしれません。
確かに結衣は心の清らかな娘であった。美濃屋の人々や育ての父を守るために、自らの生命を投げ打ったのだ。だが、佳純もまた結衣に劣らず心の美しい女であることに間違いはなかった。
時折吹く風にチリチリと涼やかな音を立てる風鈴を見て、佳純は瞳を輝かせていた。
その横顔に見惚れつつ、源一郎は思ったものだ。