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霞み桜 【後編】

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 もし結衣が生きていたなら―。源一郎は一瞬、考えても詮ないことを夢想した。実妹である妹である志保とはいかにしても結ばれぬ宿命であった。それでも、あの時、源一郎はたとえ妹でもすべての柵(しがらみ)を断ち切って志保を一人の女として自分のものにしようと決意した。
 志保の自死により、それは果たされることはなかった。今から思えば、実の妹と契るなどという仏罰を犯さずに済んだのは不幸中の幸いであったのか。
 結衣とも両想いだったから、こうして祝言を挙げることができていれば、晴れて心身共に結ばれる幸せな夜になっていたに相違ない。間違っても他の男に焦がれている他人行儀な女と初夜を迎えることはなかった。
 だがと、源一郎は余計な感傷を急いで脳裡から閉め出した。結衣も志保ももう、この世の人ではない。自分と佳純は生きているのだし、縁あってこうしてめぐり逢い、夫婦となった。
 これから長い人生を共に歩いてゆくのは既に亡くなった女たちではなく、佳純なのだ。
 源一郎は微笑んだ。
「あっという間に祝言が決まったゆえ、ろくに知り合う間もなかったが、これからゆっくりと互いを知れば良い。そなたを歓ばせる口説き文句一つ言えぬ男だ。さりながら、そなたを妻として大切にすると今夜誓う。これから我らが夫婦として歩む年月ははるかに長い。どうかよろしくな」
 今度は律儀に頭を下げると、佳純が愕いたように眼を見開いた。慌てて両手をついて頭を垂れる。
「こちらこそ、よろしうお願いします」
 源一郎は懐から小さな髪飾りを取り出し、佳純に近づくとその漆黒の髪に挿した。愕いた佳純が身動きしようとするのに、声をかける。
「心配致すな。簪をつけているだけだ」
 佳純は床入りする前に湯浴みして、薄化粧している。髪も洗ったのか、降ろして横流しで一つに緩く束ねている。白粉のほのかな香りが漂ってきて、夜着姿の佳純の女らしさを殊更伝えてくる。
 このままずっと良い香りに包まれていたいという想いを押し殺し、源一郎は佳純から手を放した。
「うん、よく似合う」
 それは北山家で出入りする御用商人から買い入れたものではない。市中見廻りをしていた時、町の小間物屋で見つけたものである。その分、高価とはいえないかもしれないが、細い銀簪に小さな桜を象った石が付いている愛らしいものだ。
 石は桃色蒼玉(ピンクトパーズ)だと店の主人から教えて貰った。ふと店先で眼を止め、気が付いたら買っていた。そのときはまだ婚約したばかりであったものの、小さな桜を見た刹那、佳純の優しい笑顔が浮かんだのは確かだった。
「急に決まった婚儀ゆえ、何も買ってやれず済まなかった」
 詫びる源一郎を佳純がおずおずと見上げた。源一郎は胸をつかれた。佳純の黒い瞳には涙が冴え冴えと光っていた。
 源一郎は佳純の頬をそっと片方の手のひらで包み込んだ。流れ落ちる涙を優しくもう一方の手のひらでぬぐった。
「私は他の殿方を―」
 源一郎は人差し指を佳純の唇に押し当てた。
「何も申すな」
「でも」
 佳純の眼から大粒の涙が零れ落ちた。
「俺が良いと言っている。そなたが嫁に欲しいと思ったゆえ、縁談を断らなかった。佳純はまだ十八になったばかりだ、人生のやり直しは幾らでもできる」
「源一郎さま」
 すすり泣く佳純を源一郎はそっと抱き寄せた。
「そなたは泣き虫だ、初めて逢った日から、泣いてばかりいる」
 笑いを含んだ声音で囁くと、佳純は泣き笑いの表情で微笑みかけた。涙を溜めた瞳で見つめられ、源一郎はそのあまりの愛らしさに眼を離せなくなった。
 それからしばらく後、二人は並んだ布団に入った。いかほど経った頃であろうか、源一郎はとうとう誘惑に抗いかねて、身を起こした。隣の新妻に近づき、その掛け衾(ふすま)を静かに?いだ。
 佳純もまだ眠ってはいなかった。この状況で二人とも眠れないのは当たり前かもしれない。二人共に互いを必要以上に意識してしまっている。
「―佳純」
 妻を呼ぶ掠れた声は滲み出る欲情に濡れていた。源一郎は妻の上から覆い被さり、その前結びにした夜着の帯をそっと解いた。シュルリ、と、夜陰に艶めかしい衣擦れの音が響き渡る。静まり返った閨の中だけに、その物音がやけに大きく聞こえた。
 そこで源一郎は現に戻った。横たわった佳純の身体は大きく震え、眼はうっすらと涙を湛えていた。
 刹那、源一郎は頭を何かで殴られたような衝撃を受けた。
 妻はまだ伊三郎に未練を残している。良人として認めたくない事実をあからさまに突きつけられた瞬間だった。
 けれど、自分はそれを承知で佳純を娶った。あんな卑劣な男のことなど思い出したくもないし、表立って問うようなことではないが、佳純の気性からして結婚後も他し男と関係を持ち続けるような女ではないことを源一郎は確信していた。
 実家の父新島右衛門助は娘が嫁入り前に既に生娘でなかったことなぞ知らないだろう。謹厳実直で通る右衛門助が万が一知れば、激怒して相手の伊三郎と我が娘佳純を並べて手打ちにしかねない。
 佳純は恐らく佳純なりのやり方で、結婚前に伊三郎との関係には終止符を打ったはずだ。それは何の確証があるわけでもないけれど、源一郎が四年の同心生活で数々の事件や人に遭遇して培った勘によるものであった。
 伊三郎の方はどうだったのか。まあ、言い寄る女には不自由しない遊び人だから、遊びで付き合う女が一人減ったからとて、特にどうといったことはなかったはずだ。むしろ、女の方から手切れを申し出られて、後腐れなく別れられて良かったと安堵したクチかもしれない。
 あのろくでなしは、そういう類の男に違いなかった。
 仮に伊三郎との関係を清算したのだとしても、人の心はそのように容易いものではない。佳純は佳純で本気の恋だった。この娘は遊びや身体の欲を満たすためだけに男と深間になるような女ではない。だからこそ、源一郎は佳純に惹かれたのだ。
 佳純が自分を良人として心身ともに受け容れるまでには、まだ時間をかけねばならないだろうとは覚悟していた。大切な女だからこそ、無理に抱いたり手籠めのような形で初夜を終えたくない。
 源一郎は熱くなる身体を持て余しながらも、優しい笑みを浮かべた。
「安心しなさい。俺は無理強いをしたりはしない。佳純がその気になるまで待つから」
 解いた帯はそのままに彼は震える佳純を抱きしめた。少し力をこめれば壊れそうなこの可憐な妻をこんなにも守ってやりたいと思う。
「私もずっと」
 佳純が涙混じりの声で囁いた。
「ん? 何だ」
 耳を寄せると、佳純が泣きながら訴えた。
「私が縁談を断れなかったのは父に言われたからだけではありません。私も―私もずっと源一郎さまのような優しいお方の傍にいられたらと思ってしまいました。だから、どうしても断り切れなかったのです。こんな女で、私は源一郎さまにはふさわしくないと知りながら、あなたのお優しさに甘えてしまいました」
 たとえ佳純を抱くことができずとも、今夜はその言葉一つで十分だった。この言葉からも、佳純が伊三郎との辛い恋を忘れて新しい源一郎との暮らしを前向きに送ってゆこうという気になっていることは判る。
作品名:霞み桜 【後編】 作家名:東 めぐみ