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霞み桜 【後編】

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 大広間ではその日、遅くまで祝宴が繰り広げられたものの、夜五ツ(午後八時)に漸く最後まで残っていた招待客が暇乞いをした。それを潮に新郎新婦も退席して、それぞれが床入りの身支度を調える。源一郎が若夫婦の初夜を過ごす寝所に脚を踏み入れたのは四ツ(十時)前であった。
 まだ来ていないと思っていたのに、佳純は既に寝所で待っていた。襖を開けた彼の眼に映じたのは開け放した障子戸と廊下にひっそりと佇む?妻?の姿であった。佳純は源一郎が来たことも知らず、廊下に立って一心に庭を眺めている。
「佳純どの」
 小声で呼びかけ、源一郎は思い直した。今宵からは夫婦となるのだから、この呼び方はおかしい。あまりに他人行儀というものだろう。
「―佳純」
 呼び慣れない呼び方ではあったけれど、佳純にはちゃんと届いたらしい。ピクリと細い背中が震えた。
「申し訳もございませぬ」
 佳純は白一色の夜着を纏っている。泣いていたのか、夜目にも露を宿した瞳がこちらを見つめていた。その瞳にはっきりと怯えが浮かんでいるのを源一郎は見た。微かな落胆が心を掠める。
 やはり、佳純にとって、この結婚は意に添わぬものであったのだろうか。彼の胸に疑惑が生まれた。
「今日は疲れたであろう」
 労るように声をかけても、佳純はこちらに来ない。源一郎は仕方なく妻の傍に歩み寄った。佳純は良人となったばかりの源一郎にはあまり関心がないようで、やはり庭を熱心に眺めている。
 源一郎は小さな溜息を吐き、それでも穏やかに佳純に語りかけた。
「そんなに熱心に何を見ている?」
「梅が見事にございますね」
「梅? ああ、確かに昼には満開であったな」
 源一郎は頷いた。別邸の庭には紅梅、白梅と寄り添うように梅の樹がある。三三九度の杯を交わすときも、大広間からは見事に咲き揃った満開の梅の花が見えていたものだ。
「そう申せば、今日は桃の節句であった。この日に祝言を挙げたというのも何かの巡り合わせかな。もしや最初に授かる子は女の子かもしれん」
 その刹那、佳純の身体に緊張が漲ったのを源一郎は見逃さなかった。
「私は祝言を挙げたばかりで、まだ子のことまでは考えられませぬ」
 その声音には明らかな拒絶があり、源一郎は心に薄ら寒いものが吹き込むのを感じた。
 やはり、この問いは夫婦として暮らす前に訊いていた方が良いと源一郎は佳純に向き直った。
「一つ訊いておきたいことがある」
「はい」
 佳純は依然として庭の梅を見つめたままだ。
「何ゆえ、この縁談を受けた?」
 伊三郎の名なぞ初夜に出したくもないから出さなかったが、佳純には源一郎の思惑は伝わったはずだ。
 佳純は少しうつむき、その体勢のままで応えた。
「父に断ってはならぬときつく申し渡されたゆえにございます」
 やはり、と源一郎は心が沈んだ。佳純自らが望んだ祝言ではなかったのだ。予感は当たってしまった。
「さりながら、我が兄は縁談を断られたからと申して根に持つような人物ではない。それは仲人の主永どのからもよくお伝えして下さったものと思うが」
 佳純は小さく首を振った。
「それはよく存じております。ただ、北山さま―いえ、旦那さまや北山家の方々がいかに寛大でいらっしゃろうと、断れぬものは断れぬのでございます。新島家は北山のお家の足許にも寄れない家ですから」
 つまりは格下の家から断れる縁談ではなかったということだ。佳純は少し恨みがましい口調で言った。
「私はてっきり旦那さまが断って下さるとばかり思っておりました」
 源一郎は言葉に窮した。まさか佳純との縁をこのまま終わりにしたくなかったのだとは言えず、彼は敢えて話題を変えた。
「夜も更けてきた。弥生とはいえ、まだここは冷える。中に入ろう」
 何の気なしに佳純の手首を掴んだだけで、さっと振り払われた。
「―」
 流石に鷹揚な源一郎も顔色が変わるのは致し方なかった。佳純も咄嗟のことで無意識だったらしい。
「申し訳ありません」
 小さな顔を失望の色に染めて謝る。どうやら先行きは難しい結婚生活になりそうだと源一郎もまた暗澹とした気持ちになった。
 先に源一郎が部屋に入り、後から佳純が続いた。開け放していた障子戸をきっちりと閉めて佳純は夜具からは少し距離を置いて端座している。
 部屋の中央には若夫婦が使う夜具が二つ並んでいた。佳純はその夜具から努めて眼を背けているようだ。
 源一郎は夜具に胡座をかき、手で差し招いた。
「こちらへ」
 佳純は来ない。
「こちらへ参られよ」
 少し強く言うと、今度は素直に傍に来て膝を揃えて座る。それでも、まだ源一郎との距離は少し離れていた。佳純が今夜、良人に抱かれたくないと考えているのは明らかだ。 
 源一郎は内心は少しも見せず、さっと近づくと佳純を引き寄せた。
「―っ」
 佳純の細い身体が一瞬で強ばった。だが、己れに必死で言い聞かせているのか、抵抗はしない。源一郎は佳純のやわらかな身体に回した手に少し力をこめた。
 このまま力を出せば、折れてしまいそうに華奢で儚げな肢体だが、女特有のまろみを帯び、胸も十分に豊かで成熟していた。その魅惑的な身体を抱きしめて何もしないでいるというのは正直、若い源一郎には拷問に近い。
 が、彼は意思の力を総動員して滾る欲望をねじ伏せた。
「考えれば、人の縁とは不思議なものだ。我らはこうして顔を合わせるのはまだ数度目。にも拘わらず、既に祝言を挙げて夫婦となった」
 佳純からは何の言葉もない。源一郎は構わず続けた。
「見合いの席でも申したように、俺は気の利いた科白一つ言えぬ武辺者だが、よろしくな」
「旦那さま」
 源一郎の逞しい胸に顔を埋めているため、佳純の声は幾ばくか、くぐもっていた。源一郎も今宵は佳純同様、白一色の着流し姿である。薄い夜着越しに親密に触れ合った感触はかえって素肌を重ねるよりも生々しく、源一郎は蠱惑的な妻の身体を離してやるのにはかなりの努力が必要だった。
 源一郎が腕の力を緩めると、佳純は慌てて離れて、また一定の距離を空けて座った。恥じらうように少し乱れた襟元を直す仕種も愛らしいのに色香がある。
「私の方も旦那さまにお訊きしたいのです」
 佳純の可愛らしい面には疑問の色があった。
「先ほど旦那さまは私に何故、この縁談を断らなかったのかとお訊ねになりました。同じ質問を私もしとうございます」
「俺が縁談を断らなかった理由、か」
 源一郎はゆるりと首を振った。
―そなたにひとめで惚れたからだ。
 とは、到底言える雰囲気ではないし、第一、佳純もそんなことを言われても歓ばないだろう。むしろ、余計に疎まれてしまう可能性さえある。
 源一郎は小さく息を吸い込んだ。
「これも初めて逢った日に申したと思うが、俺はこの広い江戸であまたいる男と女の中で、そなたと出逢った縁を大切にしたい。それが理由だ」
 その応えは満更偽りではなかった。初対面ではまだ佳純を娶る気は毛頭なかったが、既にあの時、源一郎はこの少女が重い悩みを抱えているのを知り、何とか力になってやりたいと願った。
作品名:霞み桜 【後編】 作家名:東 めぐみ