霞み桜 【後編】
「親分、仮に見合い相手のことがなかったとしても、俺は伊三郎を許しちゃやらなかっただろう。だが、あやつが知り合いを誑かしてるとなれば、話は別だ」
源一郎は怒りのあまり、我を忘れそうだった。そんな彼に俣八が労るように声をかけた。
「だからって、早まっちゃいけませんや。旦那は悪党を懲らしめる側ですぜ、それが悪党になっちまっちゃ、笑い話にもなりませんぜ」
源一郎が低い声で笑った。
「判ってるよ、親分。俺は伊三郎を殺すつもりはねえ。さりとて、このままむざと好き放題を許すつもりもないのさ。必ず、あいつにこれまで積み重ねてきた悪行の報いを受けさせてやる」
「そう来なくっちゃね、それでこそ、あっしが生命を預ける八丁堀の旦那だ」
俣八の眼には孫を気遣うような温かな色があった。普段は怜悧だが、時に若さのあまり暴走しそうになる彼を心底から思い苦言を呈してくれる貴重な存在である。
「旦那は怒らせちまったら、滅法怖いですからね。あっしは死ぬまで旦那を敵に回したくはありやせんね」
老練な岡っ引きが真顔で口にした科白はまったくの本音であった。これまで数え切れないほどの事件を解決し、たくさんの極悪人と対決した俣八だが、心底から怖いと感じたのは実はこの若い同心一人であった。
本当に怒ったときの源一郎は身の内から蒼白い焔が燃え立つようで、そんなときの彼は抜き身の刃のような殺気を全身から発散させる。間違っても闇夜で逢いたくない―いや、明るい陽差しの下でも出くわしたくはない相手だ。
「とにかく、あっしはもう少し湊屋について探ってみまさ」
俣八はそう言い置いて、疲れを見せもせずまた江戸の町に飛び出していった。
その翌日の朝には、更に俣八によって新たな情報がもたらされた。
それは源一郎が予期していたとおりのものだった。湊屋の経営状態は悪化どころか、ここ十年来、上向きの一方だということが判った。やはり、伊三郎は佳純に嘘を吹き込んでいたことになる。
ところが、一つだけ真実が含まれていた。伊三郎には既に親同士が決めた許婚者がいるというのである。?備前屋小町?と呼ばれ、その美貌が錦絵にもなるほどの佳人であり、湊屋にも引けを取らぬ材木問屋の娘だという。
「まったく、そんな器量良しの許婚がいながら、方々のよその女に手を出すなんざ、相当の女好きなのか阿呆なのか」
俣八はしきりに首を傾げて呆れていた。佳純にはまだ正式な婚約はしていないと告げたものの、その娘と伊三郎は既に一年前に正式に結納を取り交わしている。つまり、伊三郎は将来、女房となる決まった女がいるということだ。
女の美貌はむろんだが、伊三郎にしてみれば、備前屋との繋がりの方により魅力を感じているはずだ。いずれにせよ、あの男には佳純を妻に迎える気など毛頭ない。どころか、最初から佳純は大勢いる気まぐれに手を付けた女の一人に過ぎなかった。
女の方も遊びと割り切っている関係なら、まだ伊三郎の所業も見逃しもできる。だが、伊三郎は甘い言葉を囁き続け女を本気にさせておいて、平然と棄てる。人の気持ちを弄び、更にその女たちの人生を根底から狂わせ破壊してゆくのだ。
伊三郎とは本気で惚れ合っていると信じている佳純しかり、伊三郎の子を身籠もっているおみのしかり。
身体だけさんざっぱら弄んで、飽きたら襤褸雑巾のようにぽいと捨てる。冷酷な鬼でもなかなかできない所業だろう。
―許せねえ。
源一郎は拳を握りしめ、そこに伊三郎がいるかのように宙を睨み据えた。
「怖ぇ、怖ぇ」
そんな源一郎を俣八は見つめ、思わずブルリと小柄な身体を震わせたのだった。
佳純との縁談はその後、とんとん拍子に進んだ。二人ともに特に異を唱えなかったため、半月後には婚約、祝言の日取りまで決まった。
その日は大安吉日に加えて、雛の節句でもあった。
自分でも愚かな男だと思わずにはいられなかった。惚れた男のいる女だと知りながら、何故、佳純を娶るのか。考えたくはないが、佳純が伊三郎と既に深間になっているのは疑いようもない。
―他の男の手垢のついた女なぞ、わざわざ妻に迎えるとは正気の沙汰とは思えぬ。
他人であれば、そう詰るに相違ない。
だが、どうしても縁談を断れなかった。その裏に、佳純への恋情があることを、つまり、佳純に惚れているのだと嫌でも認めないわけにはゆかなかった。
一方、源一郎は佳純の心も理解できなかった。伊三郎に恋い焦がれつつ、何故、この縁談を承知したのか。よくよく考えれば、格下の新島家から断れる話ではないともいえるが、源五はそこまで狭量な男ではない。あれほど公正明大で知られた男がたとえ縁談が沙汰止みになったとしても私怨で報復などするはずもなく、そのことは間に立った主永から新島右衛門助にも伝えられているはずだ。
現に見合いの席に刻限に大幅に遅れて飛び込んできた佳純はいきなり
―そちらから断って下さい。
と、泣きながら懇願した。ゆえに、源一郎の方は佳純がこの縁談をいずれ断るものと信じて疑っていなかった。断るすべがあるにも拘わらず、何故、佳純がこの縁談を最終的に受け容れたのか。幾ら考えても、源一郎は解せなかった。
こうして納得のゆかぬ心を抱えたまま、源一郎はその日を迎えた。華燭の儀は北山家の別邸大広間において厳かに行われた。幸菱を織り出した練り絹の白無垢を纏った新婦は殊の外美しく、紋付き羽織袴姿の新郎と金屏風の前に居並んだ姿はさながら似合いの夫婦雛のようで、列席者は感嘆の溜息を洩らした。
親族の席に連なった北町奉行北山源五とその妻芳野は弟の晴れ姿に涙を流し、幾度も涙をぬぐった。両親の不幸な死にもけして涙をみせなかった?鬼奉行?が泣いたのは後にも先にも人生で一度きり、このときだけだ。
幼い源一郎をあるときは厳しくあるときは優しく育ててきた母代わりの義姉は堪え切れず声を上げて泣いた。
「殿、息子の祝言というのは恐らく、母としてこのような気持ちになるものでしょうか」
傍らの盛装した源五にそっと囁くと、源五は頷いた。
「そうであろうの。何とも言葉にならない心もちだ」
「源一郎どのはここのところ色々とありすぎるくらいありましたもの。佳純どのは素直で心優しい娘です。きっと傷ついた源一郎どのの心を癒してくれる良き妻となりましょう」
「儂もそのように願ってやまぬ」
源五も芳野も源一郎が受けた恋の痛手を知っている。兄夫婦がそのような会話を交わしているとはついぞ知らず、源一郎は隣の花嫁が気になってならなかった。綿帽子を被っているため、佳純の表情までは定かには判らなかったが、自分が佳純を妻にできたことを歓んでいるように、佳純にもこれから始まる新しい結婚生活に希望を持って欲しいとひたすら願った。
むろん、佳純の実家新島家からは男手一つで佳純を育て上げた父右衛門助や既に嫁いだ二人の姉、その良人や子どもたちも参列した。どちらの姉の子もまだ幼く、厳粛な式の最中に幼児がむずかったり赤児が泣き出したのもまた式に花を添え、誰も眉をひそめるよりは微笑んだのだった。