霞み桜 【後編】
「まあ、元気を出しなせえ。辛いだろうが、あんたも男だ。ここはグッと我慢のしどころだよ。その上でおかみさんとよおく今後のことは話し合ってな。あっしの名も俣だから、どうも他人事じゃねえような気がするよ」
「ありがとうございます」
叉次郎が頭を下げ、俣八は源一郎に軽く一礼すると、すぐに縄のれんを飛び出していった。
源一郎は叉次郎を勇気づけるように言った。
「親分の言うとおりだよ。十二年も連れ添った女房だ。それなりに情もあるだろう。俺はまだ妻も子もおらぬが、同じ男として、お前の気持ちはよく理解できる。幾ら糟糠の妻だとしても、他人の子を宿した女と連れ添うというのは並々ならぬ覚悟が必要だ。とにかく女房とよく話し合う必要がある」
それでも、叉次郎の顔は冴えなかった。
「しかし、話し合おうも何も、肝心のおみのが伊三郎にぞっこんなんですから」
「なに、伊三郎のことは心配致すな。すぐにというわけらはゆかぬが、捨て置けぬ行状ゆえ、お奉行さまに湊屋の主人を直接呼び出し、倅の素行管理不行き届きとして厳しく諫めて貰うという手もある」
「―へえ」
「くれぐれも短気は起こすなよ。女房に手を上げたり、伊三郎を傷つけようとしたりしてはならぬ。あのような屑野郎はどうなろうが知ったこっちゃねえが、そんなことをすれば、お前自身が罪に問われることになっちまう。お前のような真っ当な人間があんな屑野郎のために牢に入る必要はさらさらねえ」
源一郎は伊三郎の肩に手を置いた。
「何か変わったことがあれば、番所に知らせてくれ。俺で力になれることがあるなら、いつでも力になろう」
源一郎が踵を返したその時、叉次郎の声が追いかけてきた。
「旦那」
「何だ?」
首だけねじ曲げるようにして問うと、叉次郎は人の好さげな丸顔をクシャッと歪めた。
「さっきは恥を言うようで言えませんでしたが、俺はおみのともう一年以上―」
そこで口ごもり、叉次郎は泣きそうに顔を歪めて言った。
「あいつが伊三郎と出来ちまってしばらく経った頃から、俺とあいつはもう夫婦の交わりもなくなりました。だから、あいつの腹の赤ン坊が俺の子だということは絶対にあり得ねえ」
いっそのこと、ただの一度でも交わりがあれば、腹の子を手前の種だと無理に思い込むこともできたんでさ。
叉次郎は悔しげに言い、拳で頬をつたう涙をぬぐった。
「情けねえ亭主でしょう。こんなだから、女房にも愛想を尽かされるんだ」
源一郎は叉次郎の背を叩いた。
「いや、そなたはそれだけ女房をまだ愛しておるのだ。ゆえに、そのように考えるのであろう。それは恥ずべきことではない」
縄のれんを出てから、源一郎は懐手をしつつ思案に耽った。
湊屋伊三郎という名がそうそう江戸にあるはずもない。恐らく考えたくはないけれど、佳純の惚れた?伊佐さん?も叉次郎の女房が身籠もった赤児の父親も同一人物と考えて間違いない。
叉次郎の口から?湊屋伊三郎?の名が出たときには、それはもう眼の前が白くなったほどの衝撃を受けた。しかも、伊三郎が相手にしているのは佳純とおみのだけではない。他にも調べ上げれば、もっと多くの哀れな女たちの名があがることだろう。
同じ男としても許せない男だと思った。女郎屋で遊興に耽るどころか、素人女にまで見境なく手を付けるとは許し難い。
それにしても妙だ。佳純は湊屋の身代が傾いているようなことを話していた。だが、叉次郎の口ぶりでは、伊三郎はおみのに気前よく金を与えているようである。幾ら馬鹿息子でも、真実、湊屋の経営状態が悪ければ、そんなことはしないだろうし、第一、持ちだすだけの金がないはずだ。
恐らく、佳純は言葉巧みに伊三郎に騙されているのだ。伊三郎は親同士の決めた許婚がいて、その父から多額の金を借りていると言っている。が、その許婚云々というのも本当かどうか怪しいものだ。
人気のない道を歩く源一郎の傍を睦月の風が通りすぎてゆく。源一郎は天を仰ぎ、上背のある身体を震わせた。
「随分と冷えてきやがったぜ」
鈍色の雲が低く垂れ込めた江戸の空は今にも泣き出しそうで、源一郎はそれが先刻見たばかりの叉次郎の泣き顔と重なった。
翌日の昼下がり、源一郎は番所で俣八からの報告を受けた。
「旦那、あの伊三郎ってヤツは、とんでもねえ野郎ですぜ」
呆れたような口ぶりで始まったその内容に、源一郎は怒りを禁じ得なかった。
湊屋伊三郎は予期したとおり、廻船問屋湊屋の一人息子であり、佳純の惚れた男だった。彼は名うての遊び人、女好きで通っており、遊廓どころか賭場にも頻繁に出入りしているという。その合間には素人女にまで手を出し、今回のように女を孕ませたのはこれが初めてではない。
以前は湊屋に奉公していた若い女中に手を付けて懐妊させ、その娘は湊屋が所有する江戸近郊の寮で出産させ、身二つになってから子どもは里子に出され、女の方は湊屋宗右衛門、つまり伊三郎の父が相応の商家に嫁がせたということだ。
流石にその際は息子に甘い父親も
―店の者に手は出すな。
と、家内で揉め事を起こすことを息子に固く禁じたそうだ。それ以降、伊三郎は快楽の対象は専ら外に求めるようになった。
「それから、こっちが維平次に調べさせた女の一覧でさ」
と、俣八が差し出した紙切れを源一郎は奪うように受け取った。俣八によれば、ここらに名前が挙がっている女たちは現在、伊三郎と深間になっている者ばかりで、昔、拘わりのあった女―例えば、伊三郎の子の母となった元女中などの縁の切れた女は挙がっていないという。
紙切れに乗っている女はざっと八人。その中には当然ながら、桶職人叉次郎の女房おみのもいた。あるはずだと思いながらも実際にその名を見るまでは信じたくなかった源一郎は、一度眼を瞑った。しばらくして眼を開いて紙切れを見ても末尾にはやはり?新島右衛門助女(むすめ) 佳純?と記されていた。
「しかし、まあ、腹立たしいが、男としては羨ましい身分でやすね」
俣八がうっかりと零した呟きに、源一郎は刺すような鋭い視線を向けた。
「―旦那?」
俣八が小首を傾げ、源一郎の顔を伸び上がるようにして覗き込む。身長差のある二人は頭二つ分ほども高さが違うため、おいおい話すときはこんな体勢になる。
俣八は野犬の襲撃を警戒するような表情で、もう一度源一郎を呼んだ。
「旦那、伊三郎が許せねえ野郎だというのはあっしも同じですが、何か、あいつに特別な恨みでも?」
「親分」
源一郎は小さく首を振った。それから先は言葉にならなかった。
「一昨日、見合いをした」
ようやっと口に乗せた言葉は幼子のようにたどたどしいものだった。俣八は皺に埋もれた細い眼をまたたかせた。
「それはようございやしたね。で、相手の娘さんは別嬪で―」
言いかけた俣八が息を呑んだ。流石は?中町の親分?だ、わずかなやりとりでおおよその事情を察したらしい。
俣八もいつになく色を失っていた。
「まさか旦那、その見合い相手というのが伊三郎の毒牙にかかっちまってる女衆の中にいるんでやすか?」
「―そういうことだ」
源一郎の掠れた声に、俣八は呻いた。
「何てこった」