霞み桜 【後編】
「さて、腕っこきの俣八親分と話がついたところで、その手にした物騒な得物をどうするかな? 大人しく得物を収めれば、今回ばかりは見逃してやろう。だが、あくまでもそこで阿呆言ばかり抜かすなら、このまま問答無用で縄を掛けてしょっ引くぞ」
男は滑稽なほど狼狽えた。
「い、いやですよ、八丁堀の旦那。俺は端から言いがかりをつけられたもんだから、ついカッとなっちまっただけで、本気でこいつとやり合うつもりなんぞ、これっぽっちもありませんや」
慌てて匕首を仕舞うのに、慌てすぎて切っ先で自分の指を突いたらしく、?畜生っ?と罵り声を上げている。
俣八親分と源一郎は顔を見合わせ、肩をすくめた。
「それじゃ、俺はこれで失礼します」
脱兎のこどく逃げ出そうとする男の背中に向かい、源一郎はとどめを刺した。
「おっと、肝心なものを忘れちゃいねえかい」
男が恐る恐る振り返った。
「何か忘れ物でも?」
源一郎がしたり顔で頷いた。
「おお、忘れ物でも、でっけえ忘れ物だ。兄さん、大切な主人(あるじ)の店をこれだけ滅茶苦茶にしちまったんだ。これだけのことをしておいて、はい、さよならはねえだろう?」
男が舌打ちした。
「判ったよ、有り金全部置いてきゃ良いんだろうが」
源一郎と股八にはへつらう素振りをしていたが、今やその仮面もかなぐり捨てたらしい、凄んだ調子で棄て科白を吐くと、懐から立派な長財布を出し、放り投げて去っていった。
「あいつ」
小柄な職人が血相を変えて後を追おうとするのに、源一郎が叫んだ。
「止しなってえのが聞こえねえのか。あんな悪党に関わったら、お前さん、生命を失いかねないぞ」
小柄な男がその場にくずおれた。
「言いがかりなんかじゃない。あいつは本当に俺の女房を寝取りやがったんだ」
源一郎は俣八とさりげなく顔を合わせ、頷いた。
「お前の名は叉次郎というのか?」
穏やかに問いかければ、叉次郎はグスッと洟をすすり上げた。
「へえ、町外れの裏店に女房と二人暮らしでさ」
「生業(なりわい)は何をしておるのだ?」
叉次郎は肩を落として悄然と応えた。
「桶職人をやってます」
「そうか」
源一郎は先を急かさず問いかける。
「で、そなたの女房は身籠もっていると?」
不自然な間があり、叉次郎は気が抜けたように頷いた。
「へえ」
それからすぐに勢い込んで源一郎を見た。
「旦那、ですが、俺はあいつの腹にいるガキがどうしても手前の子だとは思えねんです」
「何故、そのように思う?」
叉次郎がクッと男泣きに嗚咽を洩らした。
「女房と俺の間には、もう十年以上も子ができなかった。俺と所帯を持ってから、あいつは一度たりとも身籠もったことはないんでさぁ。それなのに、結婚十二年目に急に身籠もったと言われて、亭主が信じられると思いますか?」
逆に問い返され、源一郎は唸った。子を持つどころか、まだ結婚さえしていない彼には理解の範疇を超えるところである。救いを求めるように俣八を見やると、彼は心もち肩を竦めた。
「確かに所帯を持って十二年もの間、おかみさんが一度も懐妊しなかったというのなら、亭主としては不自然に思うのは当たり前、ですかね。旦那?」
これまた話をふられ、源一郎は整った顔に困惑を見せた。弱り果てる源一郎を尻目に、俣八は叉次郎に訊ねた。
「おかみさんは幾つになるんだい?」
「所帯を持った時、あいつは十七でしたから、今年、二十九になりますかね」
「叉次郎さんは?」
「三十二になりやす」
「そうですかい。あの遊び人風の若い男をあんたは知ってなさるんで?」
叉次郎が嫌悪も露わに言い棄てた。
「あいつは湊屋伊三郎ですよ。親の金を湯水のように使って、したい放題の放蕩三昧。ちょっと良い女ならば人妻であろうが、素人娘であろうが声をかけて出合茶屋に連れ込むのが日課のような下らねえ男だ」
俣八が咳払いして言った。
「気を悪くしねえで聞いてくれよ。叉次郎さん、伊三郎は先刻、あんたのおかみさんがたくさんの男を相手にしてるようなことを言ってたな。大方は破れかぶれの逃げ口上、手前が悪者になりたくない一心の出任せだとは思うが、それについては、あんたはどう思うんだい?」
叉次郎はダンと自分の膝を拳で打った。
「冗談じゃねえ。親分さん、女房は、おみのは元はこの縄のれんに勤めていたんでさ。通いで朝から宵の口までね。あの疫病神が二年前にこの店に来るようになったのが俺ら夫婦の運の尽きだった。あの野郎、最初は嫌がるおみのを手籠めにしやがったんですよ。それから後も気が向けばふらりと店に来て、あいつを連れ出して同じことを繰り返しやがった。おみのも最初は嫌がってたけど、向こうは江戸でも有名な大商人の跡取りだからね。その度に金を握らされて、断ろうにも断れなくなっちまったみたいだ」
しかも、伊三郎は吉原遊廓にも繁く通う根っからの遊び人だった。そんな女を知り尽くした男に素人女を陥落させるのは容易いことである。おみのは直に伊三郎の床の中での手練手管に溺れ、彼に夢中になっていった。
叉次郎は悔しげに拳を握りしめた。
「しかも、あの野郎は滅法口が立つと来てる。俺が本気なのはお前だけだと心にもねえ睦言を聞かされたんだろうよ。おみののヤツもその中、あいつに本気になっちまって、俺がそのことを知ったのはもう後戻りできねえようになっちまったときのことでした」
俣八が気の毒げに言った。
「おかみさんと伊三郎のことをあんたが知ったのはいつだい?」
「半年ほど前ですよ。どうも前々から女房の様子がおかしいとは思ってたんだが、まさか亭主持ちの身で昼日中から堂々と浮気しているとまでは思いもしませんでしたぜ」
「おかみさんとは話をしたんだね?」
叉次郎は頷いた。
「当たり前でしょう。お前はあの若旦那に騙されてるだけだと俺は幾度も口を酸っぱくして言いましたよ。でも、駄目でした。今、あいつの頭にあるのは?伊佐さん?のことだけですよ」
俣八は重い息を吐き、源一郎を見上げた。
「旦那、どうにも厄介なことになっちまったみたいでやすね」
源一郎の厳しい表情に、俣八は異変を感じ取ったようだが、流石に何も言わなかった。
源一郎は叉次郎に近づいた。
「どうやら伊三郎という男は相当の悪だ。しかも救いようのない女タラシときている。叉次郎、伊三郎がたらし込んでいるのは、お前の女房だけではないのだろうな」
叉次郎は頷いた。
「へえ、ちょっと見た眼が好みの女なら、それこそ見境なく声をかけてるみたいですよ。何せあの通り、外見は悪くはねえ男だ、その上、江戸でも指折りの廻船問屋の跡取りとくりゃア、靡かねえ女はいないでしょう」
「親分」
呼べば、いつものように俣八が脚音も立てずに忍び寄ってくる。
「湊屋についてできるだけ詳しく調べてくれ。今、あそこの身代はどうなっているのか、羽振りが良いのか悪いのか、何でも良いから、洗いざらい調べ上げてきてくんな。それから下っ引きには、伊三郎が現在、拘わりを持っている女どもをこれもすべて調べさせるように」
「へえ、合点で」
俣八は去り際、叉次郎の肩を叩いた。