霞み桜 【後編】
見合いの翌日、当然ながら、仲人となった堀田主永の妻から打診があった。源一郎は兄を通じて返事をしたものの、それは至って当たり障りのない返答になった。
つまり、源一郎はこの縁談を断らなかったということになる。というよりは、断れなかったのだ。
狡いと判っていた。しかし、源一郎は何故か佳純との縁を今、断ち切る気にはなれなかった。また、佳純の方からも断りの返事は来なかった。が、それは佳純がこの縁談に乗り気だという証にはならない。佳純は見合いの席で言っていたではないか。
―この縁談、北山さまからお断りして下さらないでしょうか。
第一、源一郎は彼女から?惚れた男がいる?と打ち明けられたばかりなのだ。
泣き上戸なのか、よく泣く娘だ。その癖、少し気分を変えてやると、今し方泣いたことなど忘れたかのように笑う。くるくると変わるその表情は見ていて飽きない。口数が多くはないのは確かだけれど、源一郎はお喋りな女よりは大人しい方が好みだ。
何より笑顔が可愛い。
―いや、泣き顔もなかなか可愛いな。
佳純の泣き顔を見ていると、わざと意地悪を言って泣かせてやりたいような、可愛い泣き顔を見ていたいと思うような、熱い衝動が込み上げてくる。
何事にも一生懸命なところがまた可愛い。そんなところは結衣に似ているだろうか。見た眼は結衣とはまったく似ていないが、どこか雰囲気が似ているような気がする。
それとも、これは自分がまだ結衣のことを忘れられないから、未練のせいでそう思えるからに違いない。
―やはり、泣いた顔よりは笑顔が良い。
源一郎は佳純の花が開いたような笑顔を思い浮かべ、思わず口許を緩めた。
源一郎は今、市中見廻りの最中である。どうやら軽い風邪を引き込んだらしく、今朝は悪寒がしたため、煎じ薬を飲んで出てきた。が、佳純のあの笑顔を思い出すと、面妖なことに悪寒も忘れ果て、温かなものが身体と心にひろがってゆくようだ。
「―んな、旦那」
誰かが遠くで呼んでいる。
「旦那!」
いきなり耳許で大声で出され、源一郎は露骨に顔をしかめた。
「いきなり大声で叫ぶなよ、親分」
岡っ引きの俣八が源一郎に負けないくらいの渋面で眼前に佇んでいた。
泣く子や女年寄りには滅法優しい情けある親分だが、名の知れた盗っ人からは鬼のように怖れられている熟練の岡っ引きである。源一郎をよく助けて、その手足となって動いてくれる。
事件が起こり、その全体像を見据えて事の絡繰りを暴くのは源一郎の得意とするところだ。この親分は若い彼が見落としがちな細部まで見渡し、時に貴重な助言をくれる。また、源一郎の指示に従い江戸の町を下っ引きと共に走り回り、事件を解き明かす証拠や不審なな人物を見つけてくる。
犯人を見つけるその研ぎ澄まされた嗅覚は、さながら獲物をひたすら追い求める猟犬にも似ている。そろそろ六十が近くなっているはずの俣八だが、その足腰の強さや身のこなしの敏捷さは若い下っ引きがついてゆけぬと弱音を吐くほど確かだ。
「だって、旦那ときたら、大分前から、あっしが呼んでもいっかな気付いちゃ下さらねえんですから。大声の一つ二つ出したくもなるっていうものでやすよ」
「で、どうしたんだ?」
俣八が仏頂面でむくれたように言った。
「あっしが旦那を探すとなりゃア、捕り物に決まってるじゃねえですかい」
途端に源一郎の顔色が変わった。
「何だって? 捕り物か」
俣八がニヤリとして言う。
「捕り物が根っから好きなのは旦那もあっしも似た者同士でやすね」
しかしながら、源一郎はもう俣八の科白なぞ聞いてはおらず、既に走り出した。
「そうこなくっちゃ」
俣八は水を得た魚のように源一郎の後をついて駆け出した。
現場に到着したのは、それからきっかり四半刻後である。そこは場末の縄暖簾だった。
「まあ、死人が出たってえわけじゃないのが救いだな」
源一郎が呟くと、背後で俣八がぼそりと呟いた。
「放っておけば、その死人が出そうっていうんで、番屋に届け出があったんですよ」
源一郎が店に踏み込んだ時、狭い店はかなり壊滅状態に近かった。店は数個の机と腰掛け代わりの空樽で一杯の手狭な空間だ。その中の二つの机が引っ繰り返り、店内には十人近い客がいた。皆、顔が恐怖に引きつり片隅に肩を寄せ合うようにして固まっている。
中央で二人の男が物凄い形相でにらみ合っていた。問題を起こしているのはこの二人であると自ずと知れる。
「手前、人様の女房を孕ませて、その言い草はねえだろうが!」
職人風の小柄な男が意気込んだ。
向き合っているのは長身のなかなかの男前だ。だが、いかにも遊び人らしく、濃紺の結城紬を粋に着流している様は荒んだ暮らしぶりが透けて見えるようである。
「だから、俺も何度も言ってるはずだぜ。身持ちの悪ィ女が孕んだ赤児なんざ、誰の種か判らねえってな」
遊び人の若い男が肩を竦めると、職人が怒鳴り返した。
「おみのはそんな女じゃねぇッ」
まさに怒髪天を突く勢いとは、このことである。と、遊び人がまた大仰に肩を竦めた。
「お前は頭にカッと血が上っちまって、何が何だか判らなくなっちまってるのさ。考えてもみな、大体、お前の言うような貞操のしっかりとした女なら、お前という亭主がありながら俺と寝たりはしねえ。俺の他にも間男がごまんといるのかしもしれねえじゃないか」
「何だとォ」
職人が握りしめた拳を固めて震わせた。
「ホウ、俺をやろうってえのか?」
遊び人が掌で匕首をおもむろに遊ばせた。
「だが、俺はお前なんかにやられやしねえ。逆にお前の方が泣きを見ることになるぜ」
それとも、と、遊び人が揶揄する口調で言った。
「あんたの嬶ァがよほどの男好きな淫売か、あんたが名前はたいそうなもんだが、手前の女房一人が満足させられねえ甲斐性なしの亭主なのか、そのどちらかもしれねえな。え、叉次郎さんよ」
わざと?叉?の字を強く言いながら、男が下卑た笑い声を上げる。
「叉は叉でも、能なしの叉でございってな」
「くそう」
職人が今にも遊び人に掴みかかっていきそうな気配に、源一郎が彼にスッと近寄った。
「止しな。お前さんがまともにかかっていって敵う相手じゃねえ。あれは相当な修羅場を積んでる悪党だぜ」
いかにも真面目で働き者といった職人である。源一郎は彼の肩を宥めるように軽く叩き、小声で囁いた。
「ここは俺たちに任してくんな。あんたの悪いようにはしねえ」
話している源一郎の傍で、俣八親分がついと進み出た。
「ねえ、若い衆、先刻から聞いてりゃ、あんたも随分な物言いをするねえ。見たところ、気随気儘な極楽とんぼに違えなかろうが、良い歳をして人様に言っても良いことと、言っちゃならねえことがあると知らねえのかい。あんた、?また、また?とえらく俺の名を馬鹿にしてくれたが、この名前に文句があるってことは、?中町の俣八?に文句があるってことだね?」
遊び人が眉をひそめた。
「中町の俣八?」
「そうさ。おいらは中町の辺りをシマにしてる俣八ってえんだ。お陰様でお上からご用を預かって三十年さ」
瞬時に男の貌から血の気が引いた。その俣八の後ろから、源一郎がゆっくりと進み出た。