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霞み桜 【後編】

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「ええ」
 これも永遠に続くかもと思える静けさの後、佳純が頷いた。源一郎は矢継ぎ早に質問を繰り出した。
「何故、仕方ないと思うんだ?」
 躊躇った後、覚悟を決めたように佳純はひと息に言った。
「伊佐さんには親の決めたお人がいるから」
「何だ、所帯持ちと同じじゃねえか」
 つい口走り、佳純がまた泣きそうになったので慌てた。
「いや、まあ、そりゃ所帯持ちとは違うが、似たようなものじゃないか? 許婚がいるってことだろう?」
 佳純は力なく首を振った。
「正式な結納は交わしていません。親同士の口約束だということで。ただ、そうなるのも時間の問題でしょう」
 源一郎は腕組みをした。
「正直に言うが、佳純どの。俺はその伊三郎って男、気に入らねえな。佳純どのの話を聞けば、ヤツには許婚も同然の女がいる。そんな身の上で佳純どのに告白までさせておきながら、きっぱりと断ってもいねえ。その男がどういう了見なのか皆目判らねえな」
 いつしか源一郎は地が出て物言いがすっかりといつものものになっていることにも気付かない。
「そこまで気儘気随にふるまうからには、いずれ名の知れた大店の跡取りだろうな」
 源一郎の呟きに、佳純が哀しげに微笑んだ。
「北山さまの神通力には敵いませんね。そうです、伊佐さんは深川の?湊屋?という廻船問屋の跡取りです」
 源一郎がホウと息をついた。
「湊屋といえば、かなり名の知られた店だな。こんなことを訊くのは野暮だと承知だが、佳純どの、その伊三郎とやらが親を説得して佳純どのを内儀に迎える可能性はねえのかい?」
 佳純がゆっくりとかぶりを振った。源一郎は重い息を吐き出した。顔を見たこともい伊三郎の言い訳をするように佳純が言い募った。
「仕方がないんです、伊佐さんのお店は今、大変だから。湊屋さんはもう大分前から商いが上手くいってないらしくて、相手のお嬢さんのお父さんにかなり助けて貰ってるみたいです。それで、断ろうにも断り切れないって」
 源一郎は咎めるように言った。
「佳純どののその甘さが伊三郎を良い気にさせてるのかもしれねえぜ。良い歳をした大の男が自分の煮え切らねえ態度を父親や他人(ひと)のせいにするなんざ、男の風上にも置けぬ」
「―っ」
 佳純が息を呑んだのを見て、源一郎は続く言葉を辛うじて飲み込んだ。
 源一郎の読みでは、湊屋伊三郎の言い分はどこか不自然、つまり偽りが多分に含まれているのではないかと思われた。佳純に伝えた言葉がすべて真実とは思えず、下手をすれば、そっくりそのまま真っ赤な嘘という可能性もあり得た。
 だが、その本音を佳純に打ち明けるのはあまりに残酷すぎる。伊三郎を一途に恋い慕う佳純のためには伊三郎の話が真実であって欲しいと願うばかりだが、大方の場合、こういうときの?勘?は往々にして的中する。そして、当たって欲しくないと思うときに限って、その?勘?は当たる。
―こいつは少し伊三郎という男を探ってみる必要があるな。
 源一郎は心の内は少しも出さずに、今度は話を変えた。
「ところで、佳純どのの名前のことだけど」
 唐突に話題が変わったので、佳純は少し愕いていたようだが、むしろホッとしたように見えた。これが腕利き同心の話術だとは想像もできないのだろう。
「はい、名前の話ですね」
 にっこりと微笑んだその笑顔はやはり源一郎にとっては春の太陽のように眩しいものに思える。
「佳純どののお母上はいつ、お亡くなりになったんだ?」
 佳純が少し遠い眼をした。まずい話題だったかと、源一郎は手を振った。
「嫌なことを思い出させちまった。この話は止めよう」
 しかし、大人しい佳純に似合わず、このときばかりは、きっぱりと断じた。
「私なら大丈夫です」
 更にまた、やわらかな微笑を浮かべた。
「母が亡くなったのは私が十二のときです。今、六つの弟を生んで亡くなりました。私の上にはそれぞれ二つ違いの姉がおりまして、皆とうに他家に嫁ぎました。父も母も私が末っ子になるとばかり思い込んでいたところ、ひょっこりと弟が生まれたんです。その時、母も四十になっていましたし」
 四十歳といえば、当時ではかなりの高齢出産だ。女にとって?大役?でもあり?大厄?ともいわれる出産はまさに生命賭けである。医療技術のまだそれほど発達していなかった江戸時代は尚更だといえた。
 源一郎も笑みを浮かべた。
「佳純どののお父上は奥方を大切に思われているんだな。三人の娘御にもすべて奥方のおん名の一字を与えたとは、よほど大切に思し召しておいでだったのだろう」
 佳純も頷いた。
「母が亡くなったのは私が十二でしたから、母の想い出も結構残っているのです。本当に子どもから見ても仲睦まじい両親だったと思います。私は幸せなことに、父と母が烈しい喧嘩をしているところを見たことがありません。それはたまに口論くらいはしていましたけど、それもすぐに仲直りしていましたもの」
 源一郎がしんみりと言った。
「俺は両親ともに物心つくかつかない頃に亡くなっちまったから、実のところ、何も憶えちゃいない。後から父の話を兄に聞いて、知ったようなつもりになってはいるけどな。ゆえに、佳純どのがご両親の想い出をしっかりと憶えているのが羨ましいよ」
 佳純が少し辛そうに言った。
「北山さまがご両親さまを早くに亡くされたお話は叔父から聞きました。北山さま、私はですから、いつも両親に憧れていたのです」
 源一郎が佳純を見ると、彼女はふんわりと笑んだ。
「いずれ出逢うお方と父と母のように仲睦まじい夫婦となり、たくさんの子どもたちに囲まれて暮らしたい、そうなれば、どのように幸せであろうかと夢見ておりました」
 少しませていたのかしら、と、頬を染めて呟く姿は微笑ましく、人眼がなければ抱きしめてやりたいくらい愛らしい。
 佳純であれば、良き妻、母親になるだろう。こんな風に愉しく語らい、共に暮らせる女と夫婦になれれば―。
 源一郎は我に返った。
―俺は何を考えていた?
 佳純は他の男に恋い焦がれている女だ。そんな女に惚れて、どうなるというのだろう。源一郎は自分に言い聞かせた。
 これは断じて恋などではない。ゆきずりとはいえ、佳純と知り合ったのも縁だから、その佳純の心に抱えた悩みを解決する助けをするまで。
 自分は結衣も志保も救えなかった。だが、佳純を救うことで、何らかの罪滅ぼしになるはずだ。彼はまたも先刻考えた言い訳を自分に対してした。
 それからほどなく、源一郎は佳純を新島家近くまで送り届け、奉行所に戻った。
「毎度ありがとうございます」
 おさくの機嫌の良い声に見送られて外に出た後、二人ともに先刻まで弾んだ会話が嘘のように黙り込んだ。
佳純は殆ど喋らずじまいで、源一郎も何をどう言って良いのか判らず口を閉ざすしかなかった。
 佳純と別れて一人歩き出した時、仰いだ空は薄蒼く、すじ状になった細い雲が天人が被るという裳のようにたなびいていた。寒走った冬の空は今にも雪が降りだしそうだ。
 ふいに寒気が一挙に押し寄せてきて、源一郎は襟許に顎を埋めるような格好で足早に奉行所までの道を辿った。
 
    祝言
   
作品名:霞み桜 【後編】 作家名:東 めぐみ