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霞み桜 【後編】

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 澄んだ雫が次々と頬をころがり落ち、源一郎は狼狽えた。
「す、済まない。俺が強く言い過ぎた。許してくれ」
 奉行所一の知恵者も女の涙にはからきし弱い。結衣の涙を見ただけで、かつて源一郎まで泣きたくなったものだ。
「なっ、俺が悪かったから。頼むから、泣き止んでくれ」
 店の奥から女将が時々、好奇心と心配の入り混じったありがた迷惑な視線を寄越しているのを知らぬ源一郎ではない。初めて連れてきた娘を泣かせているなぞと思われるのはご免だ。
 源一郎は我に返り、慌てて言った。
「とにかく、その話は後だ。佳純どの、あの女将は口煩いが、ここの甘物の味は悪くない。折角のぜんざいがもう冷めてしまったが、佳純どのも食べてみれば判るだろう」
 佳純に言ってから、源一郎自身も早速、ぜんざいを口にした。出来たてならばともかく、とっくに冷めてしまっている。だが、冷めてしまったせんざいを食べる源一郎の額には汗が浮いていた。
―俺はどうも女の涙は苦手だ。ましてや、こんな可愛い娘とくれば尚更だ。
 源一郎はまた手ぬぐいで忙しなく汗をぬぐい、心で嘆息した。
 源一郎は思った。佳純は喋らないでいると、地味な印象しかないけれど、笑うと随分と雰囲気が変わる。まさに、花が開いたような明るい雰囲気に包まれ、右頬のえくぼが愛嬌を添える。
―笑顔がいっとう良いな。
 佳純が無心にぜんざいを食べる姿を眺めつつ、源一郎はいつしか佳純に見入っていることに気付いた。
―俺はどうしたんだ?
 自分の心の中にはいまだ忘れられない結衣や志保が棲み着いているはずなのに、いつしか彼の気持ちは眼の前のこの少女のことばかりになっていた。
 腹が空いていたのか、佳純はぜんざいを綺麗に食べた。食べ終えてから恥ずかしげに言った。
「はしたないですね」
 源一郎は笑って首を振る。
「いや、そんなことはない。人が食べ物を美味しそうに食べるのを見るのは俺は好きだ。佳純どのは良い食べっぷりをしている」
 佳純が吹き出した。
「そんな風に褒められたのは初めてです」
 源一郎はうす紅くなった。
「いや、申し訳ない。俺は根っからの朴念仁で、女を歓ばせる科白など口にできないんだ。もっと別のことを褒めれば良いのだろうが」
 世の中には息をするように、自然に心にもない科白をぺらぺらと口にできる男がいることに、源一郎は今更ながらに愕かされる。自分は間違っても、そんな類の男ではない。思ったことをそのまま口にして、女に呆れられるのが関の山だ。
 ―と、当人は信じ込んでいる。その口のつたなさを補って余りある外見、美男ぶりを源一郎自身はとんと自覚していない。それがまた彼の魅力の一つではあるのだが―。
 佳純が小さな溜息を零した。控えめな桜色の紅を乗せている口許が可憐だ。口許に小さな小豆がついているのに眼を止め、源一郎は知らずに手を伸ばしていた。
「小豆が」
 佳純の花のような唇に人差し指で触れ、小豆をすくい取ると、そのまま自分の口許に持っていきペロリと舐めた。
 佳純が驚愕したように固まっている。源一郎は我に返り、身体が熱くなった。
「俺、何を―」
 どうも今日の自分はおかしい。この娘と一緒にいると、いつもの自分ではなくなってしまうようだ。源一郎は頬が燃えるように熱くなるのを自覚した。
「済まない。何か俺は今日、佳純どのに謝っているばかりだ」
 苦笑いを刻むのに、佳純が微笑んだ。
「気になさらないで下さい」
 どうやら佳純の方は先刻の出来事を忘れるようにしたらしい。賢明な判断だと思うものの、源一郎自身は到底忘れられるような出来事ではなかった。佳純は見たところ、特に色気があるというタイプの女ではない。
 十八歳という歳相応の娘盛りの色香はあるにしても、間違っても触れなば落ちんという、熟れた女ではない。なのに、何故、この女の口許を見つめていると、得体の知れぬ妖しい心もちになるのだろうか。
 源一郎も若い男だから、それなりに性欲はある。結衣や志保と関係を持つには至らなかったけれど、惚れた女を抱きたいと共にいると時、劣情を抑えるのに苦労したことは何度もあった。だが、佳純とはまだ出逢ったばかりだし、間違っても好いた惚れたという感情があるはずもない。
 今でも、この見合いは断ろうとはっきりと考えているのだから。
 にも関わらず、佳純と一緒にいると感じてまうこの熱情の正体は何なのか。自分という人間が判らなくなったのは人生でこれが初めてであった。いつも源一郎は自分を抑制するということについては、それがきちんとなしおおせると信じていた。役目柄、それは当然のことだとも。
 だが、佳純といると、自分がいつもの冷静さや思慮分別をかなぐり捨ててしまいそうで、そんなことを考える自分が理解できなくて少し怖かった。
―馬鹿な。
 源一郎は自分を嘲笑った。前科を重ねた、どんなあくどい凶状持ちでも怖れることなく挑んできた自分がこんな無力で可愛らしい少女相手に怖いだなどと。
 これは一時の気の迷いにすぎない。見合いなぞというものを生まれて初めてすることになったから、心が常になく昂ぶり迷いが生じているだけなのだ。源一郎は己れに言い聞かせた。
 そんな彼の心なぞ知らぬげに、佳純が無邪気に笑った。
「北山さまのおっしゃるとおりです。とっても美味しかったです」
 その無垢な笑顔に、源一郎は釘付けになった。何と愛らしく微笑むのか。この無防備な少女を守ってやりたい、源一郎の心が強く動いた瞬間だった。
 迂闊にも源一郎はこの時、まだ気付いていなかった。佳純を守ってやりたいと願う保護欲と、彼女を自分のものにしてしまいたいという征服欲というまったく相反する二つの感情が彼の中で生まれていたことを。
 思えば結衣も志保も尋常でない育ちをした娘たちだった。結衣は盗賊の娘として育ち、養父の喜助とは実の父子ほどに心は通い合っていたものの、やはり世の子どもが普通に与えられる境遇とは違っていたろう。
 志保は源一郎の実の妹であり、二人が恋に落ちたのはその真実を知る前だった。志保は物心つくかつかないときに家族と引き離され、商人の家に里子に出された。養父は志保に心からの愛情どころか、娘を出世の足がかりか金儲けの道具としてか見なさないような卑劣な男であったのだ。
 彼女たちに比べて、佳純はれきとした旗本の娘として生まれ育った。幼いときに母を失ったとはいえ、父の新島右衛門助は多少頑固で融通のきかない人柄ではあるが、真面目で子煩悩な父親だと聞いている。大切にされ幸せに育った佳純は、旗本の息女という育ちのせいもあってか、素直で屈託がない。
 そんな彼女が惚れた男のことを語るときだけ、その可愛らしい面に濃い翳りが落ちる。源一郎はその?男?が気に食わなかった。
―俺がその男なら、佳純どのにこんな哀しい表情(かお)はさせない。
 源一郎は複雑な想いで佳純を見つめた。
「佳純どのの惚れた男というのは、伊三郎というのか?」
 ハッと佳純が息を呑んだ。途端に笑顔が消えて、強ばった顔になる。源一郎は切なくなり、つい口走った。
「俺がその伊三郎なら、佳純どのにこんな辛い想いはさせない」
「仕方ないんです」
 長い静寂の末、佳純がポツリと言った。源一郎が問い返した。
「仕方ない?」
作品名:霞み桜 【後編】 作家名:東 めぐみ