霞み桜 【後編】
連れ去られてしまった。二人の乗り込んだ駕籠が遠ざかってゆくのを茫然と門
前で見送りつつ、彼は虚ろな声で言った。
「兄上、何故なのですか! 何故、瓔子をあのような男に?」
「今は訊いてくれるな。いずれ、そなたが大人になった暁には真実を話す機会
もあろう」
兄の声があまりに辛そうで、妹を大切に思うのと同じほどに兄を慕う彼には
その時、それ以上問いただすことはできなかった。
後に、その?真実?は兄ではなく兄の妻、つまり義姉の芳野から教えられる
こととなった。
―北山家には代々、言い伝えがありましてのう、最初に生まれた女の子は当家
に不吉な災いをもたらすものとなると言いますのじゃ。ゆえに殿さまが熟慮の
末、瓔子さまをあの者に託すことにしました。源一郎君、お辛いお気持ちはお
察し致しますれど、殿にとりても瓔子さまはまた可愛い妹君、そのただ一人の
妹を手放すしかなかった殿の哀しみもお察しして差し上げて下され。
兄夫婦は身分違いの結婚と先代、つまり両親に猛反対された。それほどの熱
烈な恋愛結婚でありながら、二人は子どもに恵まれなかった。そのため、兄は
歳の離れた源一郎を我が子のように可愛がり、嫂もまた彼を我が子のように慈
しんでくれていた。
その義姉にこうまで言われて、源一郎が何を言えるはずもない。
言えなかった想いは大きな塊となり、彼の胸の底に重く沈んだ。その後、生
き別れになった妹の消息を知ることもなく、月日は駆け足のように過ぎ去っ
た。
月日とともに幼き日の記憶は曖昧になったものの、妹が連れ去られた日も庭
の秋海棠が可憐に咲いていたあの光景だけは何故か源一郎の心に鮮明に灼きつ
いていた。
歳とともに成長するにつれ、単なる迷信一つのために、たった一人の大切な
妹を手放す必要があったのか―疑問は大きく膨らんだ。しかし、武家にとって
は、しきたりやそのような言い伝えこそが最も重んじられるものであることも
理解はできるようになっていた。
秋風の中で、秋海棠の花が小さく揺れている。妹の笑い声が弾ける。源一郎
は久方ぶりに見る幼い妹に手を伸ばした。
―兄上、ご覧下さりませ。私と同じ名前の花が見事に咲いております。
しかし、次の瞬間、妹の無邪気な笑顔が泣き顔に変わった。
―兄上っ、兄上っ。
助けを求めて差しのべられた手、その小さな手を繋ぎ止めようと彼は必死で
手を伸ばす。
だが、いかつい顔をしたあの男が情け容赦もない眼で彼を傲然と見下ろす。
―お前の妹は私が連れてゆく。
男に担がれた妹の泣き声が遠ざかる。
―行くなっ、瓔子、行ってはならぬ。
源一郎は声の限り叫ぶも、男は無情にも笑い声を上げながら去っていった。
源一郎は己れの無力感をひしひしと感じながら、虚しくその場に立ち尽くす。
庭の秋海棠の薄桃色の花が涙で滲んだ。
「―っ」
源一郎は悲鳴にならない悲鳴を上げ、身を夜具の上に起こした。妹の夢を見
たのは随分と久しぶりであった。
彼は両手で頭を抱え込み、がっくりとうなだれた。
―瓔子、そなたは今、どこにいるのだ?
生きていれば、もう二十歳は超えている。当たり前の日々を生きていれば、
とうに嫁いで良人を持つ身となり、子にも恵まれているだろう。
果たして、幼い妹がその後、どうなったのか? 兄からは消息を追うことも
詮索することも堅く禁じられていた。そこによほどの事情を感じ取り、源一郎
も敢えて詮索はしなかった。けれど。涙で小さな顔を真っ赤にして、あの男に
連れ去られていった妹の泣き顔、助けを求める悲痛な声が今もこうして悪夢と
なって彼を苛むのだ。
大切にされていれば良いが、あの男は何のつもりで妹を連れ去ったのか。よ
もや兄が妹を粗略に扱う輩に瓔子を託したとは思えないけれど、幼い源一郎
は、あの不遜な男がどうしても真っ当な人間には思えなかった。
もしや既に生きてはおらぬのだろうか。源一郎は額に手をやり、重い息を吐
き出した。小さく首を振る。
止そう、今更考えても詮ないことだ。兄も妹のことは端からいなかった者と
して忘れよと繰り返し告げた。だが、あの愛らしい大切な妹をこの世にいなか
ったことになんて、できるはずがない。
瓔子は確かに彼の傍にいて、笑ったり泣いたりしたのだ。あの小さな温もり
は紛れもなく現のものであった。離れてから長い年月、瓔子を忘れたことな
ど、片時たりともなかった。
源一郎はまた小さな溜息をつき、やるせない表情で部屋を満たす闇を見つめ
ていた。
志保という娘
油照りというのだろうか、風がそよとも吹かぬ真夏のねっとりとした大気は
何ともいえない不快感を催す。
「まあ、ここ半月ばかり、事件らしい事件が起こらねえのが救いといやア、救
いかな」
彼は呟くともなしに呟き、十手でしきりに痒みを訴える首の辺りをこすっ
た。
「ああ、帰って、さっぱりと湯でも浴びてえ」
彼は溜息をつき、また独りごちる。
「こう暑くちゃア、盗っ人も伸びてやがるな」
自分で言った冗談に乾いた笑みを零し、今日は奉行所には帰らず、このまま
役宅に戻ろうかと踵を返しかけた、その時。
女のか細い悲鳴がどこかで聞こえたような気がして、源一郎は即座に振り向
いた。これはもう殆ど定町廻同心という仕事柄、身に付いた性癖のようなもの
だ。
「だからさ、お前がちょいと顔を貸してくれたら、万事が丸く収まるんだよ」
案の定、見るからに柄の悪い遊び人風の若い男が娘に絡んでいた。源一郎は
また息を吐く。
「何でえ、何でえ。何かと思えば、チンピラが娘をかどわかし、か」
ここは江戸は町人町の目抜き通りである。江戸でも随一と呼ばれる呉服問屋
京屋初め錚々たる大店が軒を連ね、昼のこの時間帯は通行人も多い。
しかし、うっかりと拘わり合っては累が及ぶのを警戒してか、通りすがりの
人で娘を助けようとする者は生憎と見当たらないようだった。まあ、何分、こ
の暑さだ、通りをゆく人々の表情も皆げんなりと疲れ切ったようで、他人事に
加勢するゆとりはないのかもしれない。
彼は十手を納めると、おもむろに男に近づいた。
「おい、昼間から何の抵抗もできねえ女に因縁つけるとは、お前も随分と暇だ
な?」
着流し姿の紋付巻羽織といえば、同心に決まっている。源一郎を認めた男は
流石に愛想笑いを浮かべて、女から手を放した。
「いや、旦那。お暑いところ、お勤め、ご苦労さんです」
如才なく頭を下げるのに、源一郎は笑顔で返してやりつつ内心、うんざりと
していた。
所詮は小物だ。相手が自分より弱い者とみれば平然と見下し嬲るが、強いと
知れば忽ち尻尾を振る節操のない犬に変わる。源一郎はこういう輩が大嫌いだ
った。
「お前の方こそ、これからちょいと顔貸してくんな。番屋でゆっくりと茶でも
飲みながら、子細を聞かして貰っても良いんだぜ」
彼の言葉に、男の顔から薄ら笑いが消え、狼狽したような表情に取って変わ
った。
「いや、そいつは勘弁して下せえ。あっしは何もこの娘に無体を働こうとか、
無理強いしようとかいう魂胆は髪の毛ひと筋ほどもなかったんで」
あれでよく言うと呆れ、源一郎は上辺はさも相手の話に納得したように頷い
てやった。