霞み桜 【後編】
「良い男だねぇ、あたしがあと二十年若かったら、放っておかないんだけど」
源一郎の去った方を恍惚(うつと)りと眺めつつ、女将が呟くのに、背後の若い仲居たちは顔を見合わせて笑いを噛み殺すのに大変だ。
「あのお武家さま、女将さんの息子さんの若旦那さんよりも若いんじゃない?」
「確かに粋な旦那だけどね」
「恋は人を盲目にするのよ」
と、これは最も年若いまだ十代の仲居が知った風な口をきき、三十近い二人の仲居たちは更に笑いを堪えることになったのだった。
源一郎が佳純を連れていった先は?笹や?だった。一月下旬のまだ冬のただ中のこととて、渋柿色の暖簾が寒風にかすかに揺れている。?甘み処?と書かれた看板に躊躇いもなく源一郎は笹やの暖簾を跳ね上げて店に入った。
「いらっしゃい」
威勢の良い声に次いで、店の女将が近寄ってくる。源一郎は奥まったいつもの定席に座った。小体な店で、狭い店には机が三つ四つあるだけだが、上には衝立で仕切られた場所が幾つかあり、少し落ち着いて話がしたいときに源一郎はいつもそちらを使う。
今度もそちらが良いかと思ったのだが、初対面の女性―断ろうと決めている見合いの相手を衝立で仕切られた狭い場所に連れてゆくのは道義に反すると考え直したのである。
「あらま」
すっかり顔なじみの女将は佳純を認めるや、眼を丸くしている。ふくよかな丸顔の中で、ただでさえ細い瞳がよりいっそう狭められていた。
「俺は熱々のぜんざい、佳純どのは?」
しまいの問いを佳純に向ければ、佳純は素直に源一郎と同じものをと言った。ほどなく注文したぜんざいが運ばれてきた。
「北山さま、今度こそ上手くおやりなさいまし」
女将に耳許で囁かれ、源一郎は真っ赤になった。
「女将、これは違うぞ」
「何が違いますものか。なかなかお似合いですよ」
冷やかすように言うのに、源一郎が声を上げた。
「しつこい。止めろと言って―」
佳純に物問いたげな視線を寄越され、源一郎は紅くなりながら説明した。
「ここの店は俺がよく来る店で」
源一郎に皆まで言わさず、女将が後を引き取った。
「おさくと申します。いえね。北山さまと同じ年のうちの倅に去年の暮れ、初子が出来たんですよ。まあ女の子で、あたしにとっても初孫で、可愛くって仕方ないんです。それで、北山さまにも良い加減に所帯をお持ちなさいましってお勧めしてるんですけど、これがなかなか」
「良い加減にしろっ」
とうとう源一郎が怒鳴り、おさくは黙った。
「せいぜい、お気張りなさいませ」
源一郎には素っ気なく、佳純には愛想の良い笑顔を向けて
「ごゆっくりどうぞ」
と、女将は店の奥に引っ込んだ。
「どうも、おさくはお喋りでいかん」
源一郎は懐から手ぬぐいを取り出して言った。見合いとはいえ、その気はないので、今日も紋付き羽織りの同心姿である。
佳純は少し笑い、源一郎を見た。
「朗らかな人ですね。そこにいるだけで、その場が明るくなるような方」
源一郎は苦笑して頷いた。
「まあ、悪い女ではないが」
源一郎はそこで、はたと思い出した。佳純をここに連れてきたのは何も他愛ない世間話をするためではない。佳純の抱えている事情とやらを聞き出し、できれば相談に乗ってやるつもりであった。
彼は小さく息を吐き出した。
「ところで、料亭で佳純どのが申していた件だが」
「―」
佳純は黙り込んだ。先刻まで開いた花が見る間にしぼんだようだ。よほど心に重いものを抱えているのだろう。まだ十八の娘が何をそこまで思い悩む必要があるのかと、源一郎は佳純を哀れに思った。
自分は愛する女を一人として救えなかった。結衣も志保も、みすみす救えず死なせてしまった。この娘には確かに何の縁もゆかりもないが、せめて結衣や志保と歳の近いこの若い娘を救うことで罪滅ぼしをしたいと源一郎は考えた。
それに、先刻、娘に話したことは嘘ではない。この広い世間で多くの人間が江戸にひしめいている中で、数奇な因果で出逢ったのだ。所帯を持つとかはないにしても、その縁を大切にして佳純の力になってやりたいとも思う。
「佳純どの」
呼びかけた声に、佳純はピクリと反応した。まるで暴かれたくない秘密を無理に暴かれようとしているようにも見える。新島家といえば、それなりに由緒ある高禄の直参、その息女がそこまでの労苦を抱えているとは思えないがと、源一郎は訝しんだ。
「俺は確かに、そなたの伴侶としては役不足かもしれぬが、悩み事の相談に乗るくらいはできる。むろん、秘密は誰にも漏らしはせぬゆえ、安心して話してくれて構わない」
佳純はそれでもまだ迷っている風であった。源一郎は辛抱強く待ち続けた。更に少しばかり経過した頃、漸く佳純が沈黙を破った。
「好きな男(ひと)がいるのです」
それは源一郎がまったく予期していなかった科白であった。彼は一瞬、ポカンとした。奉行所随一と謳われる怜悧な同心が虚を突かれた様はなかなか見物であった。
源一郎はしばく絶句した後、やっと言葉を紡ぎ出した。
「なるほど、そういう事情があったのだな。それでは、見合いなど乗り気になるはずもない」
佳純が頭を下げた。
「ごめんなさい。本当に申し訳ございません。最初から、このような縁談はお受けするべきではなかったのです。ただ―」
またも言葉を詰まらせた佳純に、源一郎は優しく言った。
「佳純どのの秘めたる恋を誰も知らないということですね?」
「はい」
佳純は消え入るような声で呟いた。父親も母代わりの叔母ですら、知らない恋であれば、それを理由に尚更見合いを断ることはできなかったはずだ。
源一郎は首を傾げた。
「常識的に考えて、まずはその男と添い遂げる手立てを考えるべきだろうな。相手の男の素性を訊いても構わないかな?」
「それは言えません」
それまで従順だった佳純に似合わず、頑ななその物言いが余計に引っかかった。知りたくもない他人の腹が遠めがねをかけたように見えるのは、こんなときは嫌なものだ。
源一郎はズバリと言った。
「ただ身分違いだとか、そういう理由で誰にも話せないというわけではない。そうなのか? 佳純どの」
つまり、他に話せない理由がある、もしくは、そのような男だということだ。源一郎はやや厳しい声音になった。
「言いにくいことだが、直截に言う。他人に話せないような男は、ろくな男ではないぞ。そやつは佳純どのの気持ちは知っているのか?」
これにはかすかに頷いた。源一郎はますます整った顔を曇らせた。どうやら、片想いというわけでもなさそうだ。
―ますます気に入らねえな。
彼はできるだけ優しい表情になることを祈りながら、言い聞かせるように言った。
「佳純どののような純真な娘には信じられないことかもしれぬが、この世には女の気持ちを弄んで平気な男がごまんといる。俺としては佳純どのが惚れた男がそんなヤツではないことを願っている。一体、どこのどいつなんだい? 佳純どのに限ってとは思うが、まさか所帯持ちだとか、フラレちまったのに諦め切れないとか、そういうのではないよな?」
佳純の瞳に大粒の涙が盛り上がった。
「違います、伊三郎さんには奥さんもいないし、フラレたわけでもありません」