霞み桜 【後編】
「私には姉と弟がおります。姉妹は皆、?佳?の文字が入っているのです。二人の姉も?佳穂?と?佳依?ですの。亡くなった母が佳代と申しましたので、父がこの字が好きなのだと」
笑うと右頬に片えくぼができることに初めて気づいた。静かにしているよりは笑った方が随分と可愛らしい印象になる。源一郎はそんなことを考えつつ、佳純の片えくぼを眺めた。
つまるところ、佳純もこの縁談には乗り気ではないようだ。それは一刻余りも遅れて、あまつさえ、彼が既に腹を立てて帰ってしまっていただろうと期待していたことからも判る。源一郎の顔を見た刹那、佳純の面には明らかな落胆がひろがったのを源一郎は見逃さなかった。
両者の気持ちが一致しているのであれば、話は早い。問題はこの縁組みを仲立ちしてくれた堀田夫妻の面目を傷つけることなく、破談にするかということだった。源一郎としては、できれば女性側、つまり佳純の評判にも傷はつけたくない。
佳純は適齢期だし、破談の噂など良くないことは早くに知れ渡るものだ。今後の縁談や佳純の評判に傷がついたり障りとなってはまずいだろう。
ここはやはり女性側から断って貰うのがいちばん穏やかな解決策ではないかと考え、源一郎はそのための具体的な話をするつもりだった。
「ところで」
源一郎がさりげなく切りだそうとしたその時、佳純がいきなり両手をつかえた。
「北山さま、お願いでございます」
源一郎は眼をまたたかせ、佳純を唖然として見つめた。
「この縁談(はなし)、なかったことにして頂けませんでしょうか」
「―」
源一郎は固唾を呑んだ。佳純は源一郎の驚愕には気付くゆとりもなく、ただ手をついて頭を垂れている。よく泣く娘なのか、涙声になっていた。
「できれば北山さまから断って頂きたいのです。私の方からお断りするのでは、北山さまに失礼ですし、あなたさまご自身の評判にも良くないと思いますので」
これで話は終わりのはずであった。破談はお互いに合意の上だ。しかも相手側から?断って欲しい?と頼んだのだから、源一郎は何の呵責もなしに断れるはずだった。
だが、源一郎はどうにも割り切れないものを感じずにはいられなかった。佳純の様子は必死で、ある意味、健気でさえあった。ここまで懸命に縁談を拒むとは何か事情があるのだと察せられる。
余計なことに首を突っ込むなと自分を戒める傍ら、この娘に俄に興味が湧いてきたというのが正直なところだ。
「何か特別な事情がありそうですね」
「それは」
佳純は言葉を失った。源一郎は努めて穏やかな声音で問うた。
「それは何故?」
佳純はまたうつむき、しばらくは何も言わなかった。というより、言えない状態らしかった。長い長い沈黙の果てに、佳純は両手で顔を覆った。
「縁もゆかりもない方には申し上げられるような話ではございません」
すすり泣きの間から聞こえてきた応えはそれだった。
源一郎はゆっくりと首を振る。
「確かに佳純どのと俺はつい先刻までは面識もない縁もゆかりもない間柄でした。さりながら、今は違うでしょう。この広い江戸で星の数ほどもいる男と女の中で、どういう因果か見合いをすることになった。それだけでも、何かしらの縁があったということになる。俺は役目柄、しょっちゅう、色んな人の揉め事に首を突っ込んでますからね。何かを抱えた人というのは、見てすぐに判るんですよ。あなたもどこか切羽詰まったような眼をしている。―違いますか?」
源一郎の鋭い指摘に、佳純が息を呑んだ。
「北山さまは神通力でもお持ちですか?」
無邪気な問いに、源一郎は笑った。
「仕事柄ですよ。もっとも、人の心の奥を見通す眼力ってえものが時々はうっとうしくなることもある。人の心が見えるというのは厄介なものですよ。時には知りたくない、見たくなかったものを見ることにもなりますからね」
ふた月前ほどだったか、日本橋の草紙問屋の隠居が離れで惨殺された事件があった。その草紙問屋はそこそこ羽振りの良い商いをしていて、特に隠居はしこたま金を貯めているという専らの噂であった。
頼りにする倅は早くに先立ち、その倅の嫁と四十そこそこの番頭が二人で店を切り盛りしていた。孫、つまり倅の残した跡取りはまだ漸く八歳の童である。そこに隠居が殺害された。息子の嫁はいかにも殊勝に哀しげにふるまっていたが、源一郎は最初から、このしおらしさにきな臭いものを感じていたのだ。
―おとっつぁん、何で私と曾太郎を残して亡くなっちまったんですか!
葬儀の日も棺に取り縋って号泣していたが、源一郎はその巧妙な芝居に騙されはしなかった。いつものように岡っ引きの俣八の入念な調べの甲斐もあり、息子の嫁と番頭が深間になっていることは直に知れた。
しかも、その仲は病がちだった倅、つまり女の亭主が生きていた頃から続いていた。源一郎の読んだ通り、倅の嫁と番頭がグルになって店の身代と隠居の貯め込んだ金欲しさに隠居を殺害したのだ。
周囲の者、ずっと一緒だった店の者や親戚すら、女をよく出来た貞淑な嫁、主家を盛り立てて働く律儀な番頭と信じ切っていた中、源一郎と俣八だけは二人を見た刹那、?勘?が働いた。
―親分、あの二人は臭ぇな。
―本当ですぜ。何かきな臭くていけませんや。近寄っただけでプンプンと嫌な匂いがしやすよ、旦那。
二人を見た瞬間、若い同心と老いた岡っ引きは眼を見交わしたものだ。そういう勘や眼力は同心にとっては必要なものに違いないが、果たして一人の人間としては必要なものだろうかと疑問に思ってしまうことがある。
ぼんやりとそんなことを思い出していると、佳純が遠慮がちに言い添えた。
「北山さまのお噂はかねがね聞いております」
源一郎は笑いを含んだ声で言った。
「主永どのからですか?」
佳純は頷いた。
「はい。それはもう北町奉行所始まって以来の名同心だと、まるでご自分の弟か息子を自慢するようにお話しになるのですよ」
源一郎は笑いながら言った。
「ならば、それは身贔屓というものです。主永どのは俺が幼いときから弟のように可愛がって下された」
いつしか源一郎との話に我を忘れている中に、佳純は泣き止んでいた。源一郎は言った。
「これも乗りかかった船だ。佳純どのさえ良かったら、力になりましょう。俺には神通力なんてものは皆目ありませんが、少しは同心としてたくさんの事件や人を見聞きして鍛えた勘はある」
源一郎は立ち上がった。
「勘が冴えるのに良い方法があるんです」
「え?」
佳純が愕いたように源一郎を見た。
「こんな洒落た店で懐石料理なんぞちまちま食べていては良い智恵も浮かばない」
丁度その時、?失礼します?と外側から声が響いた。襖を開けて跪いた店の女将がいる。源一郎は四十半ばほどのなかなか色っぽい女将に気軽に声をかけた。
「済まぬが、俺たちはここを出る」
「ですが、ただ今、お料理をお持ち致しましたのに」
源一郎が両手を合わせ、片目を瞑った。
「悪いな。勘定の方は後でちゃんと北山家から払うゆえ、心配はない」
ではと、呆気に取られる女将を後に、源一郎は佳純を引き連れて見世を後にした。
女将の背後には二人に出すはずだった懐石料理を運ぶ仲居が三人控えている。