霞み桜 【後編】
源一郎はひと月前の兄の友の話を思い出し、その場に座り直した。主永の言うことはいちいち道理だった。兄が何のために源一郎を正式な養嗣子にしたのか。北山家の存続を強く願う兄の気持ちは彼も理解できる。
兄の気持ち、主永の体面を考えれば、この場から逃げ出したい衝動を堪えて、いまだやってこない娘を待つしかなさそうだ。
源一郎の視線はまた掛け軸の上をさまよった。この料亭は深川では名の知れた見世である。見合いの場所となるはずのこの場所は広くはないけれど、小綺麗に整えられた部屋だ。小さな床には雪の中で一輪の紅椿が艶やかに花開いている絵が掛けられていた。
床の間の傍らには違い棚があり、備前焼の一輪挿しに早咲きの梅の花が行けてある。源一郎の視線は可憐な白梅からまた掛け軸の清楚な白梅とは対照的な艶やかな紅椿に戻った。
源一郎の脳裡に、最愛の女の笑顔がよぎる。
―結衣。
?般若の喜助?と呼ばれる大盗賊の娘であった結衣は引き込みとして大店美濃屋に潜入していた当時、源一郎と出逢った。その優しく真っすぐな気性ゆえに、引き込みであることに躊躇いを憶え始め、結局はその優しい気性が結衣の生命を奪った。
結衣は美濃屋の人々と育ての父喜助を守り抜くために自分の生命を引き替えにしたのだ。あの雪の朝、変わり果てた骸となって雪に埋もれるようにして結衣は発見された。その傍らに咲いていた一輪の椿。今でも色鮮やかに花の色が思い出せる。
源一郎はその椿を摘み取り、結衣の髪に飾ってやった。儚くも美しい死に顔は自らの大切な人を守り通して、むしろ満足げに微笑んでいるようにさえ見えた。
結衣の死後、出逢った志保はあろうことか、源一郎が幼時に生き別れた実妹であった。互いに血を分けた兄妹であると知らず出逢い、恋に落ちた二人を引き裂いたのは志保の無残な死であった。志保は養父を殺し、入牢中に自ら生命を絶ったのだ。
源一郎の下で働いている岡っ引きの俣八(またはち)などはよく
―旦那は女運が悪いんでやすよ。
と言う。祖父のような歳の老練な岡っ引きは若い源一郎の心強い助っ人であった。
確かに俣八の言うとおりなのだろうとも思う。結衣といい志保といい、自分が惚れた女たちは皆、不幸な死を遂げている。或いは自分という男に関わった女は皆、不幸になるという宿命なのだろうか。
そこまで考えて源一郎は首を振った。
―何を馬鹿なことを考えてるんだ、俺は。
昔のまだ恋の何たるかを知らなかった時分なら、笑い飛ばしたような女々しい、感傷的な思考回路だ。しかし、この女ならば生命を賭けても惜しくはないと思えるほどの恋しい女にめぐり逢い、二度までもその女が不幸な死を遂げたとあれば、現実的な彼にせよ、巷で女子どもがやるという辻占に頼ってみたいと思わずにはおれない。
先刻から既に何度めになるか知れぬ溜息をついたその時、部屋の襖越しに声がかけられた。
「失礼致します」
声と共に襖が開いた。若い娘が両手を揃えて頭を垂れていた。
「約束の刻限に遅れまして、申し訳ございません」
相手は顔を伏せているので、容貌は定かではない。突然のことで、源一郎は慌てて言った。
「いや、大事ござらぬ。さようなところでは話もできない。まずは中に入られよ」
促され、娘は部屋に入ってきた。床の間を背にした源一郎とはかなりの距離を置いて座っても、まだうつむいている。
「堀田どのの奥方はいずこに?」
今回の見合いには、堀田主永の妻が相手方の娘に付き添う手筈になっていた。しかし、見たところ、その付き添いらしき姿はない。
娘が細い声で言い訳をするように述べた。
「それが、叔母は体調が悪くて、来られなくなってしまったのです」
源一郎は穏やかに言った。
「そのように面を伏せていたのでは話もできない」
指摘され、娘がおずおずと顔を上げた。確か年齢は十八と聞いているが、実年齢よりは幼い印象を与える娘だ。結衣や志保のように道を歩けば男の視線を集めるような美女ではない。むしろ、どこにでもいるような平凡な器量で、特に美しくもないが、不器量でもない。
彼は特に女性に対して美醜に拘る方ではない。女は眉目より心映えだと思っているし、第一、この見合いには端から乗り気ではない。
ただ、兄と主永の体面を重んじたからこそ、やって来たのだ。相手の娘を傷つけないように何か断る適当な理由を見つけて断るつもりでいた。
「それで、付き添い人なしで初めてお逢いする殿方とご一緒するのもどうかと迷っている中に、時間が過ぎてしまいました。まさか北山さまがまだこちらにいらっしゃるとは思わず」
どうやら、この縁談を歓迎していないのは自分だけではなく、この娘も同様らしい。自分も同じ気持ちだったのだから、この場合、かえって安堵するべきだったのに、何故か源一郎は相反することを言った。
「本当は俺と見合いをするのは嫌だったから、あなたにとってはかえって好都合だったというわけですね? ところが、いざここに来てみたら、予想外にまだ俺がいて、愕いた。そういうことですか?」
娘なりに精一杯考えた言い訳には相違なかろうが、相手の腹は見え見えだ。これしきのことが見抜けなくて、難事件を解決する定町廻同心はやっていられない。
だが、ここで辛辣な物言いで相手の気持ちを暴く必要はさらさらないはずだった。
どうも大切に育てられて、皮肉には慣れていないらしい。娘の瞳が見る間に潤んだ。
「いえ、けしてそういうわけではないのです。叔母の体調が悪いというのは真のことですから」
そのひと言に、源一郎は俄に不安になった。
「主永どののご妻女は平素から極めてお健やかにお見受けしていましたが」
娘の白い頬がうっすらと染まった。
「いえ、そういうことではなくて」
言いにくそうにしてから、恥じらうように言った。
「叔母はどうも懐妊したようです。それで体調が良くないのだと思います」
源一郎は息を呑んだ。
「なるほど、そういうことか。いや、主永どのもよくやるな。これで八人目ですよね」
紅くなりながら、娘が言った。
「その中の二人は双子ですけど」
「まあ、それなら安心だ。むしろ、めでたいことですから」
源一郎は頷き、居住まいを正した。
「俺、いや、私は北山源一郎泰久と申します。ただ今は、北町奉行所で同心を勤めています。まあ、こんなことは叔母上から既にお聞き及びでしょうが」
しかし、娘は何も言わない。源一郎は小さく咳払いした。
「で、あなたのお名前は」
言いかけて、これはあまりに失礼な問いだったかと焦った。見合い相手の名前さえろくに憶えていないというのは考えものだろう。実のところ、見合いにまるで乗り気でなかった彼は相手の娘について何の興味もなかった。
辛うじて十八歳というのを憶えていたのは、結衣が生きていれば同じ歳になっていたはずだと―、昔の忘れ得ぬ恋人のことを思い出したからだ。
娘は気を悪くする風もなく応えた。
「佳純(かすみ)と申します」
「佳純―どの。良いお名ですね」
これは世辞ではなかった。佳純という名を聞いた瞬間、何故か自分がかつて愛した女たちとの想い出の桜?霞み桜?と結びつけて考えてしまった。
「ありがとうございます」
娘が初めて微笑んだ。