霞み桜 【後編】
士にだけ通じる笑みだ。
源一郎は、先刻番屋から帰っていった沙平の話を改めて思い出していた。
数えて八日前の伊勢屋升兵衛殺しの真相が沙平の証言によって明らかになっ
た。事件当日、沙平は辺りが暗くなってから、いつものように自宅に戻った。
その前、暮れ六ツ頃に吉野屋からの迎えだという駕籠が遣わされ、志保はそ
れに乗り込んで吉野屋に向かった。吉野屋といえば、志保の親友のお紺の実家
である。
それゆえ、志保も何の警戒もしなかったのが仇となった。沙平は涙を浮かべ
ながら言った。
―あの駕籠がどうしても吉野屋のお嬢さまが差し向けたものとは手前には思え
ませんでした。これはあくまでも手前の当て推量ではございますが。
と、沙平は前置きしてから、前老中稲葉肥後守が舞の会とやらで志保を見初
めたとかで、ここのところ連日のように志保を側室として差し出せと矢のよう
な催促だったという。
沙平は語った。
―恐らく、あの駕籠は肥後守さまが遣わされたものだったのではないかと存じ
ます。
更に夜中に薄物一枚しか身に付けていない志保の姿を厠から部屋に帰る途中
の丁稚が目撃している。
―申し上げるのもはばかられることですが、お嬢さまは肥後守さまのお屋敷に
拉致され、そこで何かしらの辱めを受けてしまわれたのではないかと。
暗に志保は好色な肥後守に手籠めにされたのではないかと、沙平は控えめな
がら説明した。その下りでは源一郎は湧き上がる怒りを抑えられなかったが、
沙平が最後にした話は更に彼の怒りを煽った。
―お嬢さまは何もご存じなく、吉野屋さんからの迎えだと信じ込み、駕籠に乗
られました。
その夜、伊勢屋升兵衛はいつになく上機嫌だった。
―儂にもやっと運が向いてきた。持つべきものは器量良しの娘だな。
あの浮かれぶりからして、升兵衛は駕籠が肥後守から遣わされたものだと知
っていた可能性が高く、それどころか、肥後守と共謀して志保を好色な老人の
ねぐらに送り込んだとも考えられる、と―。
酒を飲みながら、升兵衛は
―近々、大金が舞い込むことになるだろう。
と、赤ら顔を更に紅くして得意げに吹聴していたともいう。
つまりは志保は父親に金子と引き替えに売られたのだ。
沙平の話で、源一郎はすべてが符合した。あるべき場所にあるべきものが落
ち着いたという感じだった。
志保は心優しい娘だ。その志保が升兵衛を殺すとなると、よほどのことだ。
その「よほどのこと」が何なのか、源一郎は志保が生きている間に知りたいと
手を尽くした。
しかし、当の志保本人が固く口を閉ざしているため、その真相が何であるの
かを知り得なかったのだ。
沙平がもう少しだけ早く事の次第を打ち明けてくれれば、最悪の事態だけは
避け得たかもしれない。だが、沙平を責めるのは酷であった。
真相はバラバラになった一枚の絵を繋ぎ合わせたようなものだ。源一郎は時
の流れを追って順番に沙平の語った一つ一つの出来事、小さな断片を組み合わ
せたに過ぎない。とはいうものの、その絵はあくまでも想像で繋ぎ合わせたと
ころもあった。
自分が完成させた絵に間違いはないと思うが、それだけで升兵衛殺しが起こ
ったすべての夜を再現するのは無理があったのである。
升兵衛が欲に駆られて志保を肥後守に差し出したのは間違いないが、その理
由だけで志保が育ての親を殺すとは考えがたい。
あの悲劇の夜に一体、何があったのか?
志保が亡くなった今、真実は志保だけが知っているということだろう。
ただ、あの夜、志保が肥後守の別邸に連れ込まれたことだけは事実らしい。
町外れのその屋敷は町の人から蔑みをこめて別名?妾御殿?と呼ばれ、女好き
の肥後守が女と情事に耽るときにだけ使われるような類のものであったらし
い。
その事実は、源一郎のひそかな探索で明るみに出た。別邸に常時詰めている
数少ない使用人の一人である下男が厳しい取り調べの末、証言したのだ。
すべてを語り終えた後、沙平は泣いていた。
―手前はお嬢さんがお可哀想でなりません。だから、せめて手前の話を旦那に
聞いて頂くことで、お嬢さんが浮かばれりゃア良いと思いまして。
沙平自身、志保が牢にいる間にと幾度も奉行所の前までは来たそうだが、結
局、話すだけの勇気がなく、また引き返すことになったそうだ。沙平も自分の
打ち明け話が証言と言い切るほど信憑性があると自信はなかったようである。
彼もまた沙平と同じ気持ちであった。
源一郎はむざむざ志保が自害するのを見ているしかなかった。
源一郎がまた我知らず一輪挿しの秋海棠を見つめていると、俣八が心配顔で
問うた。
「旦那、本当に何かあったんですかい」
「そうだな、色々とあった、ありすぎるくらいにな」
俣八が孫を気遣うような口調で言った。
「人生は長え。辛いこともありやすよ。だがね、旦那。旦那よりもちっとばか
り長く生きてきたあっしには判りやす。人が一生かかって歩く道の途中には辛
えことばかりじゃねえ、それと同じくらい嬉しいこともあるんですよ。だか
ら、また、良いことも出逢いもありやすって、ね」
源一郎は笑って幾度も頷いた。
「そうだな、親分。きっとまた良いことがあると信じてみてえな」
結衣との辛い恋を打ち明けた時、愛しい人の想い出は無理に忘れる必要はな
いのだと、志保は言った。ならば、志保の言うように、彼女の泣き顔ではなく
笑顔を記憶にとどめたまま、新しい一歩をまた踏み出せば良いのかもしれな
い。
源一郎にとって、彼女は妹の瓔子ではなく、惚れた娘志保であった。
一輪挿しの薄紅色の花が涙でぼやけ、源一郎は慌てて手のひらで眼をこすっ
た。
九月下旬、江戸は秋も深まりつつある今日この頃である。
(了)
秋海棠(しゅうかいどう)
花言葉―自然を愛す、恋の悩み、片想い、未熟、可憐な欲望。別名を瓔珞草
という。八月二十九日の誕生花。
第三話『妻の秘密』
不思議な縁(えにし)
源一郎は先刻からずっと端座したまま、ぼんやりと床の掛け軸を眺めるとはなしに眺めていた。この料亭に入ってかれこれ一刻を回ろうとしているが、待ち人が来る気配は一行にない。自分ではさほど性急な質でもなく、むしろ同心という仕事柄、忍耐強い方だと思うのだが、流石に言づてもなくゆうに一刻も待たされ通しでは辛抱ができそうにない。
源一郎はとうとう立ち上がった。だがと、もう一人の自分がしきりに囁きかける。
―今日の相手は堀田主永(もんど)どのの仲立ちで紹介された娘なのだ。いかに腹立たしかろうと、まだ帰るわけにはゆかぬ。
堀田主永正(もんどのしょう)影秋は兄北山源五泰典の盟友だ。堀田家は遠縁に現老中堀田大和守を持つ、三河以来の譜代の名門である。影秋自身は傍流の旗本ではあるけれど、それでも扶持は二千石となかなかの大身だ。