霞み桜 【後編】
る。紐は夕飯を下げにきた牢番が去ってから作った。着物の両方の袖を破り、
更にそれを細かく裂いて結び合わせていった。途中でつなぎ目が解けたら元も
子もないので、念には念を入れて容易には解けないように固く結んだ。
そのため、随分と念の入る作業になってしまった。
志保は長紐を天井の梁に引っかけた。先端は丸く輪になっている。背の高い
志保がその輪に首を突っ込むのはさほど困難ではなかった。
志保は眼を瞑った。
―戻りましょう、おとっつぁん。愉しかった頃に。
こうして眼を閉じれば、想い出が甦る。随明寺の縁日市で父が背負って歩い
てくれた日々。触れた父の背中はどこまでも温かかった。
あの温もりが偽りだとは思いたくない。せめて想い出だけは綺麗なままで逝
きたい。
志保の記憶は過去を遡っていった。そして、彼女の精神(こころ)が最後に還
り着いたのは養父との想い出ではなく、秋海棠の咲く庭であった。そこでは幼
い兄妹が微笑み合い、見つめ合っている。
亡くなる間際、志保は呟いた。
―兄上。
源一郎さま、あなたは私に何故、生きようとしないのかと訊ねましたね。
私はひそかにあなたを恋い慕っておりました。あなたをお慕いしてしまった
―それが私の生きていてはならぬ最大の理由です。
志保はその真実だけは、どうしても源一郎に告げることはできなかった。言
えば、優しい兄が苦しむことが判っていたからだ。
これで本当にお別れです。志保は永遠にあなたの前から姿を消します。あな
たはあなたにふさわしい若くて綺麗な娘さんと今度こそ本物の恋をして、ずっ
と幸せでいて下さい。
あなたの幸せを志保はずっと祈っています。
我が身と源一郎の恋が本物ではないとはけして志保は思わない。ただ、どこ
までいったとしても、源一郎は兄であり、志保は妹なのだ。
―源一郎さま。
最後に志保が恋しい男に呼んだのは、兄としてではなく、ただ、その男の名
だった。志保は紛れもなく瓔子ではなく、志保という一人の女として恋に生き
恋に散ったのだ。
源一郎が入牢中の志保を訪ねたその夜、志保は自ら生命を絶った。亡骸を最
初に見つけたのは夜明け前に見廻りにきた牢番であった。覚悟の上なのは明ら
かで、志保は袖を裂いて作った長紐で首を括っていた。
「それでは、これで私めは失礼致します」
元伊勢屋の番頭沙平は深々と頭を下げると、番所を出ていった。源一郎は沙
平を番所の前まで見送ってから、また番所に戻った。
番所に詰めている書き役の卯兵が使う小さな書き物机の上に、素焼きの一輪
挿しが置かれている。その一輪挿しには淡いピンクの花が無造作に挿されてい
た。
その花を見つめ、思わず感慨に浸りそうになった源一郎の耳に賑やかな声が
聞こえた。
「やあ、ただ今、帰りやした」
賑やかというよりは、いささかかしましいほどまくしたてながら入ってきた
のは、岡っ引きの俣八(またはち)である。
源一郎は眉を少しだけつり上げた。
「旦那、あっしがいねえ間、変わりはありやせんでしたか?」
源一郎は懐手をしたまま、俣八を上目遣いに見た。
「結構なご身分だな。十手持ちの身で、お伊勢参りとはなぁ。聞いて呆れちま
うぜ。こちとら、親分がいねえ間、あちこちで捕り物があって大変な想いをさ
んざんっぱら、したんだからよ」
俣八が頭をかいた。
「まあまあ、帰った早々、嫌みは止して下さいよ。娘二人が所帯を持って四十
年の記念旅行に行ってこいって、しつこく勧めるもんだから、仕方なしに嬶ァ
と出かけてきたんでやすよ。大体、旦那だって、最初は渋るあっしに、足腰が
丈夫な動ける中に行ってこいとおっしゃったんじゃねえですかい」
恨めしげに言う俣八に、源一郎は肩を竦めた。
「マ、確かにそんなこともあったな」
「何ですか、何ですか。しけた顔をしなさって。まるで竜宮から帰った浦島み
たいな顔してますぜ、旦那」
「そうかもしれんな」
源一郎がいつになく素直に認め、俣八は虚を突かれたらしい。
「まあ、番所に花なんぞ飾って、どういう心境の変化でやすか?」
源一郎は笑った。
「女にフラれた。この花は惚れた女が好きだった花だぞ」
俣八が呻いた。
「またですかい。まあ、つくづく旦那も女運が悪いんですかね」
「それよりも、人生初のお伊勢参りは愉しかったかい、親分」
源一郎の問いかけに、俣八は相好を崩して頷いた。
「ええ、一つ不足を言えば、道中の連れが皺だらけの嬶ァだってえのが玉に瑕
ですけどね。若ぇ女としっぽりとやりながらのお伊勢参りは極楽でやしょう
な」
「今の科白、俺はおみつさんについ口が滑っちまって話しそうだぞ」
おみつというのは俣八の女房である。凶状持ちも怖れるという凄腕の岡っ引
き俣八親分、本業は煮売り屋の主人なのだが、岡っ引き稼業の方が忙しく、家
業は女房に任せきりだ。実は、この親分の泣き所が女房だと源一郎は知ってい
る。
泣く子も黙る俣八親分を尻に敷いて、俣八は女房には頭が上がらない。かな
りの恐妻家なのである。
俣八が情けない声を出した。
「旦那、それは言いっこなしですぜ」
俣八は肩を竦めた後、ふと、しんみりと言った。
「ですがね、旦那。古女房には古女房なりに良いところもあるんでやすよ。旦
那も早く良い女を見つけて所帯をお持ちなせえ」
先刻、皺だらけの嬶はご免だと言った傍から、もうこの体たらくだ。源一郎
は苦笑して、俣八に言った。
「それよりも親分、半月も俺一人を働かせておいて、何の土産もねえのかい」
俣八が額をピシャリと打った。
「こいつはいけねえ、ありやすよ。ほら、旦那の好物のあんころ餅と、豆大
福。旦那は面体に似合わず、甘いものがお好きだって、長え付き合いのあっし
はよく知ってますからね、そっちは抜かりありやせんよ」
俣八は後生大切そうに抱えていた箱を机に置いた。
「流石は俣八親分だ、そう来なくっちゃ。だが、面体に似合わずという物言い
は気に入らぬな」
「マ、今、熱い茶でも淹れますから、早速、あんころ餅と豆大福を頂きやしょ
うぜ」
「おっ、そうだな。書き役の卯兵や下っ引きの維平次も呼んでやろうじゃねえ
か。維平次は褒めてやってくれ。親分の留守中、よおく俺を助(す)けてくれた
ぜ。あいつも大分使えるようになってきたな」
源一郎の提案に俣八も頷いた。
「そうでやすか。そいつは良かった。ああ、お伊勢さんも良いが、やっぱり、
江戸は最高だ。旦那、あっしがいなくて淋しかったでやしょ」
「まさか」
猫のように身をすり寄せる俣八に源一郎は顔をしかめた。
「止せやい、気持ち悪い」
「あっしは旦那に逢えずに、淋しかったですよ」
「何か悪い水でも飲んだのか、親分」
源一郎の言葉にも、俣八は真顔で返した。
「あっしは捕り物がなきゃ生きてはゆけねえ男なんだって、しみじみと思いや
した。これからあと何年旦那と一緒に働けるか判りやせんが、足腰がしっかり
してる限り、お上のご用を勤めさせて頂きまさ」
「そうだな、俺も親分がいなけりゃア、捕り物のときの勘働きもなかなか冴え
てくれなかったぜ」
若い同心と老いた岡っ引きは顔を見合わせ、笑い合った。気心の知れた者同