霞み桜 【後編】
「聞けば、この六日間というもの、水以外はまったく何も食してはおらぬそう
な。さては、餓死でもするつもりか?」
短い沈黙の後、志保は応えた。
「さしたる強い覚悟はございません。ただ、養父を殺めた私に食事をする資格
はないと思うだけでございます」
「なるほど、見上げた心がけだ。だがのう、そなたの評判を伊勢屋の奉公人初
め近隣で訊いたが、いずれも良いものばかりであったぞ。放蕩三昧の父を助け
て健気に店を切り盛りする孝行娘、皆が口を揃えて申した。そんなそなたが何
故、父を殺した?」
「さしたる理由はございません」
奉行は頷いた。
「志保よ、迂闊にも儂は知らなんだが、源一郎とそなたはかなり前からの知り
合いであったそうな。その源一郎がそなたのことをいたく心配しておる。食す
るものも食さず、取り調べに対しても一切口をつぐみ、まるで自ら死ぬのを待
っておるようだと申しておった。そなたは確かに人ひとりを殺め、その罪は重
いものだが、お上にもお慈悲がある。殊に、そなたは自首して参ったゆえ、升
兵衛殺しにも相応の理由があるならば、その生命も助かろう。源一郎はそなた
の無事をひたすら願うておるのだぞ」
切々と諭す奉行を、志保は上目遣いに見上げた。
「お奉行さま、何度も申し上げましたように、私は養父を手に掛けました。た
だ、その事実があるのみでございます」
どこまでも頑なな態度を崩さない志保に、奉行が溜息をついた。
「何故、そこまで意地を張る? それとも、父の体面や名誉を考えての上のこ
とか?」
志保はゆっくりと首を振った。その可憐な面には淡い微笑すら浮かんでい
る。
「いいえ、父のためではありません。私自身のためです」
「そなた自身のためとな」
「はい」
志保は真っすぐに奉行を見つめた。
「お奉行さま、私は升兵衛の実子ではありません。四つの砌に引き取られたの
でございます。先般、升兵衛から私の実家は武家であったと聞き及びおりまし
た。たとえ町方で育とうとも、私の身体には武士の血が流れております。私は
自らと私をこの世に送り出してくれた母の誇りのために、すべてをこの胸の内
に抱いて参ることに致しました」
志保の耳からはなお升兵衛の忌まわしき科白が離れなかった。
―お前の母親はどうしようもない淫乱な女だった。旗本の立派な亭主がありな
がら、昔の男と寄りを戻し不義を働いた。その結果がお前さ。
今また我が身が仮にも父と呼んだ男に襲いかかられ、抵抗してもみ合う中に
養父殺害に及んだなどと最後の最後まで醜聞にまみれるような真似だけはした
くない。
しばらく奉行から言葉はなかった。
「そうか」
随分と長い静寂があり、奉行が頷いた。
「伊勢屋升兵衛は若い時分は絵を嗜んでおってな、それがなかなか見事な腕前
であった。機会にさえ恵まれれば、絵筆で身を立てることも夢ではなかった男
だ。儂も水墨画に傾倒しておった時期があり、升兵衛とはその頃に知り合っ
た。とにかく邪気のない男で真っすぐなところが気に入った。歳は違ったが、
意気投合して二人で町の縄暖簾に飲みに出かけた仲だ」
志保は訝しげなまなざしで奉行を見た。奉行が乾いた笑いを零した。
「この男ならと見込んで、たった一人の妹の将来を託した。儂もまだ若く、人
を見る眼がなかったのであろう。―済まぬ、志保、許せよ」
志保の胸にこの時、去来した感情は何と呼べば良かったのだろう。源五は志
保を切り捨てた張本人であった。恨み辛みがないといえば嘘にはなるけれど、
不思議と憎しみは感じなかった。それが、血の繋がりというものなのだろう
か。志保は不思議に思った。
「そなたの堅い覚悟はあい判った。さりながら、そなたの無事を願う源一郎の
気持ちを察してやってくれ」
奉行はそう言い残し、静かに去っていった。
更に奉行と入れ替わるかのように、夕刻には源一郎が訪ねてきた。
咎人に与えられる薄鼠色のお仕着せを着た志保はここ数日でひと回り以上痩
せ、やつれていた。
源一郎は、すっかり様変わりした志保を見て言葉を失っているようだった。
源一郎と志保が弾かれたように牢の格子に駆け寄ったのはほぼ時を同じくして
いた。
「志保っ」
「北山さま」
二人は自分たちを隔てている格子戸に取りついた。志保の白い手に源一郎の
大きな手が重ねられた。
「何故、何故なのだ、どうして、死に急ごうとする?」
志保が存外に明るい声で言った。
「お奉行さまにお話は聞かれましたか?」
源一郎は頷いた。
「だが、納得はできぬ。俺は」
源一郎はうつむき、顔を上げて思いつめたような眼で志保を見た。
「俺は体面や誇りなど、どうでも良い。死んだ者の名誉を守ったとて、何にな
ろう。俺は志保に生きて欲しい。これまで体験できなかった幸せやその他すべ
てのことを長い人生で愉しんで欲しいと願っている」
「違うのです」
「何が違う、そなたは兄上に母上と我が身の誇りを守るために何も言わぬと告
げたそうではないか」
ムキになった源一郎に、志保は微笑んだ。
「確かに申しました。ですが、私が黙(だんま)りを決め込んでいる理由は他に
もございます」
「それは何だ? 俺には何でも打ち明けてくれ。俺の生命が必要だというな
ら、生命などくれてやる」
最後の言葉は涙混じりになった。源一郎がハッとしたような表情で志保を見
た。志保が堪え切れず落とした涙の粒が重ね合わせた彼の手に落ちたのだ。
「志保は嬉しうございます。そのお言葉を、北山さまの心からのお言葉を頂い
ただけで、志保はこの世に生まれてきた甲斐がございました」
「志保―」
口を開きかけた源一郎に、志保は微笑みかけた。それは花の蕾が綻ぶような
笑顔だった。
「本来なら兄上とお呼びするべきですが、どうか源一郎さまと一度だけ呼ばせ
て下さい」
「志保!」
源一郎の強ばった表情で、彼もまた志保が出生の秘密を知ってしまったこと
を悟ったようであった。
志保が静かに眼を閉じる。源一郎は涙の滲む眼で志保を見つめた。源一郎の
顔が志保に近づき、二人の唇が触れ合った。格子越しの口づけはけして深いも
のではなかったけれど、かなり長い間、二人はそのまま唇を重ねたままでい
た。
長い口づけを解いた後、源一郎が切なげな瞳で志保を見つめた。
「志保、死ぬな。俺のためにも生きてくれ。俺は何年でも待つ。そなたが償い
を終えて戻ってくるまで、何年でも待ち続ける」
「源一郎さま、私たちは」
言いかけた志保の言葉を源一郎が遮った。
「構わぬ、誰が何と言おうと、俺はそなたと共にいたい。志保、そなたが戻っ
てきたら、二人で江戸を離れ遠くにゆこう。誰も俺たちを知らない遠いところ
で、二人だけで暮らそう」
憑かれたように喋る源一郎に志保はもう何も言わなかった。ただ微笑んでい
た。
夜になった。志保は両袖が取れて身頃だけになってしまったお仕着せを眺め
た。せめて最後の道行きは女らしく紅の一つでも差し、晴れ着を纏いたいけれ
ど、それは叶わない。
それが、育ての父を手に掛けてしまった我が身の最後にはふさわしいのだろ
う。
志保はお仕着せの袖を裂いて作った急ごしらえの長紐を手にし、立ち上が