霞み桜 【後編】
志保の眼から澄んだ涙が溢れ、ひと雫頬をつたった。
翌早朝、志保は身なりを整え、通いの番頭が来るのを待った。この律儀な番
頭は志保が幼い時分から伊勢屋に奉公している古参の使用人である。今の伊勢
屋はこの忠実無比な番頭のお陰で辛うじて保っていると言っても良かった。
志保は番頭に事の次第を正直に話した。
「済まないが、番所までひとっ走りして、北町奉行所同心、北山源一郎さまを
呼んできておくれ」
番頭はすべての話を聞いてもなお半信半疑の面持ちであった。志保は寝間に
寝かせている父の骸を見せた。もとより、骸は綺麗に浄めて真新しい夜着を着
せて布団に寝かせていた。
けして良い父ではなかったが、せめてそれが十八年間、父と呼んだ人への礼
儀であった。
息絶えた升兵衛を見た番頭は声を失い、その場にうち伏した。
「お嬢さま、どうかこのままお逃げなさいまし」
この番頭は志保がゆえもなく育ての父を殺すような娘ではないことをよく知
っていた。ある意味、升兵衛よりはよほど志保を理解してくれていたのかもし
れない。
「手前はお嬢さまのお人柄をよく存じ上げております。こんな顛末になるに
は、よほどのご事情がおありだったのだと思います。今ならばまだ私以外には
誰も来ておりません。丁稚の小吉(こきち)なら、この私が何とでも言い含めま
しょう。あの子も優しいお嬢さまを姉のように慕っております。ですから、ど
うか」
小吉はよく酔った升兵衛に八つ当たりされ、殴られていた。そんな幼い丁稚
を志保はよく庇ってやり、時にはこっそりと菓子を与えてやったりしていたの
だ。
番頭は狂ったように飛び出してゆき、すぐに風呂敷包みを手にして戻ってき
た。
「これをお持ち下さい。ここ数日の儲けです。わずかですが、逃げる道中の路
銀くらいにはなるでしょうから」
「沙平」
志保はその小さな包みを押し頂いてから、また彼の手に握らせた。
「ありがとう。あなたの気持ちは忘れない。でも、私は育ての父をこの手で殺
しちまった。罪は償わなければならないわ」
六十過ぎの番頭は涙ながらに言った。
「お嬢さまはもうこれまで十分頑張ってこられたじゃないですか。商いなど放
ったらかしで遊興に耽る旦那さまに文句一つ言わず、主人の名代として立派に
この店の身代を守ってきなすった。言っちゃアなんですが、旦那さまがもっと
早くに改心されていたら、店がここまで傾くことも返せねえほどの借金で身動
きなくなることもなかったんですよ」
「―沙平、亡くなった人のことを悪く言うのは止めましょう。あなたは今まで
本当によくやってくれたわ。ありがとう、心からお礼を言います」
志保は晴れやかに微笑んだ。
「それにね、上手く逃げおおせたとしても、私はきっと一生自分の犯した罪を
忘れないと思うの。たとえ誰が知らなくても、自分自身が自分の手が血に染ま
っていることを知っている。人はどこまで逃げても、自分の犯してしまった罪
から逃れることはできないのよ」
「お嬢さま」
滲みの浮き出た沙平の茶色い顔は涙でぐしゃぐしゃだった。
「最後のお願いよ、番所に行って同心の北山さまをお呼びしてちょうだい」
微笑みかけた志保に、沙平はもう何も言わず黙って頷いた。
北山源一郎が伊勢屋を訪れたのは、それからまもなくだった。沙平に案内さ
れてきた源一郎は升兵衛の亡骸とその傍らに端座する志保を見るなり、息を呑
んだ。
志保は立ち上がり、源一郎の前に進み出た。深々と頭を下げ、両手を重ね合
わせ彼に差し出した。
―北山さま、いえ、兄上。あなたの手でお縄になるなら、私は本望です。
「ゆえあって昨晩、養父升兵衛を手に掛けました。どうぞお縄にして下さいま
し」
源一郎は何も言わず、黙って志保の手に縄を掛けた。一部始終を見守ってい
た沙平の泣き声が高くなった。
源一郎は眼の前の光景を疑った。自分は正気を失ったのかと一瞬、思ったほ
どである。今朝、番所に顔を覗かせたところに伊勢屋の番頭沙平と名乗る者が
現れた。
「同心の北山源一郎さまとおっしゃるのは旦那ですか?」
伊勢屋までの道すがら、源一郎は沙平に番屋に来た理由を訊ねた。沙平はあ
まり語りたがらなかったが、根気よく質問をしてゆく中に、大変なことが起こ
ったのだと知れた。
老いた番頭からおおよそのゆくたては聞いているはずなのに、それでもな
お、源一郎は悪夢を見ているのかと思った。いや、悪夢であることを願った。
だが、沙平の言葉に偽りはなかった。伊勢屋升兵衛は骸となり果て、その傍
らに蒼褪めた志保の姿があった。
「ゆえあって昨晩、養父升兵衛を手に掛けました。どうぞお縄にして下さいま
し」
志保は顔色こそ悪かったものの、気丈にふるまった。白い手を組み合わせ、
静かに源一郎に差し出した。
―志保どの、何ゆえ、このような取り返しのつかぬことを致したのだ?
源一郎は心の中で志保に問いかけた。しかし、源一郎もまた志保が理由もな
く育ての父を手に掛けるような娘ではないと知っていた。昨夜、志保の身に何
があったのか? それが判れば、升兵衛を志保が殺害した原因も判るはずだ。
源一郎は黙って志保の両手に縄を掛けた。少し力をこめれば折れそうな、華
奢な手首に縄をかけながら、源一郎は心で泣いていた。
よもや、実の妹にこうして自ら縄をかける日が来るとは想像だにしなかっ
た。源一郎は同心の仕事にやり甲斐を感じているが、この日ばかりは同心にな
ったことが良かったのかどうか判らなかった。
志保の身柄はそのまま奉行所内の牢で預かることになった。
源一郎は志保の自白に一抹の期待を賭けた。たとえ養父とはいえ、子が親を
殺したのだ。ご法度に則って裁かれるとしたら、重い罪になるはずであった。
良くて島流し、最悪の場合は打ち首獄門を覚悟せねばならない重い罪であっ
た。
志保は自ら番所に出頭し、自らの罪を認めている。その上で、養父を殺さざ
るを得なかった相応の事情があれば、情状酌量となり生命だけは救うことがで
きるはずだ。
しかし、志保は取り調べに対しても何一つ喋らなかった。取り調べは奉行の
命により源一郎ではなく、他の与力同心に一任された。源一郎は兄に志保の取
り調べを担当させて欲しいと懇願したものの、源五は今回ばかりは頑として承
知しなかった。
取り調べは続けられたが、肝心の下手人が黙秘を通すため、捜査は何も進ま
なかった。ただ時間だけが徒に過ぎていった。
志保が捕らわれてから六日め、奉行北山源五自らが牢を訪ねてきた。
その時、志保は狭い牢内の片隅に両膝を立てて手で引き寄せるような格好で
座り込んでいた。その傍らには昼の食事が置かれている。食事といっても顔が
映るほどの薄い粥と青菜のお浸しが少々の粗末なものだ。
しかし、志保はまったく手を付けていなかった。
「志保と申したか」
唐突に名を呼ばれ、志保はゆるゆると顔を上げた。その立派な身なり、辺り
を圧するような存在感から、その壮年の男が北町奉行北山源五であることは一
目瞭然であった。
「さようにございます」
志保が殊勝に応えると、奉行は手つかずの食事を一瞥し、穏やかな声音で続
けた。