霞み桜 【後編】
らしなく鼾をかいて眠りこけていた。口許から涎を垂らしている姿は滑稽とい
うより無様だ。
私はこんな男をずっと信じ続けてきたのだろうか。虚しい想いが束の間、志
保の心をよぎった。
志保は父の枕辺に近寄り、敷き布団の下にそっと手を差し入れた。用心深い
父がいつもこの場所に匕首を隠し持っていることを知っていたのである。わざ
わざそこまで用心しなくても、伊勢屋に金がないことは江戸っ子なら誰でも知
っている。
この男は何も現実が見えていない。吉原でも最高級の娼婦である花魁が愛想
笑いで
―わっちには主さんだけ。
と言えば、本気にして通い詰め、身代を潰した。それに懲りず、またも岡場
所の安女郎に入れ上げ、借金まで拵えた。
少しく迷った末、彼女は布団下から取り出した匕首を懐深くにねじ込んだ。
もとより、志保にこの時、升兵衛を殺すつもりはまったくなかった。ただ、升
兵衛から正直な話を引き出すためには、これを使うしかないであろうとも考え
ている。
父は小心な男だ、刃物の一つでも見せて脅かせば、存外にあっさりと真実を
話すに違いないと踏んでいた。願わくば、これを使う場面など来なければ良い
と祈るような気持ちだった。
「おとっつぁん、おとっつぁん」
丁稚を起こしてはいけないと、志保は低い声で呼びかけた。
「う―ん、何だ?」
升兵衛が寝返りを打ち、眼を薄く開いた。
「おとっつぁん、私です」
もう一度呼びかけると、升兵衛は?ん??と間の抜けた声を発して漸く眼を
開いた。
今宵は月もない闇夜である。志保はこれではろくに話もできないと枕辺の行
灯に火を入れた。
途端に周囲が明るくなり、升兵衛は眩しげにパチパチとしきりにまばたきを
繰り返す。
「お、お前っ、志保なのか?」
火影に照らし出された志保を認めるなり、升兵衛は息を呑んだ。
「そうです、あなたの娘の志保です」
「だが、お前は―」
そこで、升兵衛は流石に口をつぐんだ。自分がまんまと志保を騙して駕籠に
乗せて肥後守の許に送り込んだとは言えないのだろう。
志保は代わりに言ってやった。
「稲葉肥後守さまのお屋敷から戻って参りました」
「―っ」
升兵衛が改めてゴクリと唾を飲んだ。薄い夜着に身を包んだ娘盛りの豊満な
肢体が灯火にくっきりと浮かび上がっている。
実の父親が娘をこんな嫌らしげな眼で見るはずがない。志保は新たな落胆と
哀しみを憶えながら言った。
「あなたは私を肥後守さまに売ったのね」
「いや、違う。これには事情があって―。そう、そうだ! 儂は肥後守さまに
脅されたのだ。可愛い娘を売るような真似はできないと一旦は断った儂に、あ
くまでも拒み通すならば娘もろとも生命はないぞと言われた」
精一杯回らない頭で考えたのだろう。誰が考えても下手な言い訳だ。志保は
嗤った。
「私は信じていたのよ。なのに、最後まで、あなたは私を裏切った」
志保は懐から匕首を取り出した。そっと鞘を払うと、刃が行灯の光を受けて
鈍く光る。
ヒ、と、升兵衛が情けない声を上げて後退した。
「待ってくれ」
升兵衛は後ずさりながら、うわ言のように呟いた。
「おとっつぁんはお前のために良かれと思って」
「何が、おとっつぁんよ」
志保は升兵衛を睨みつけた。恐らく哀しいけれど、この父が我が身を?娘?
だと思ったことは一度もないのだろう。
「待て、待ってくれ」
升兵衛が首を振った。
「お前は本来なら、この世に生まれるべき人間じゃなかった。それをこの儂が
引き取って育ててやったんだぞ? 生命の恩人にお前は刃を向けるのか!」
「この世に生まれるべき人間じゃなかった?」
あまりに禍々しい科白に、志保は動揺を隠せない。声が震えないようにする
のが精一杯だった。
「それは、どういう意味なの」
升兵衛は夢中で言い募った。
「お前の母親はどうしようもない淫乱な女だった。旗本の立派な亭主がありな
がら、昔の男と寄りを戻し不義を働いた。その結果がお前さ」
「嘘!」
志保は升兵衛を睨んだ。
「この期に及んで、まだ嘘を重ねるつもりなの?」
「嘘じゃない。嘘だと思うのなら、北町奉行所に行って、奉行に逢って訊ねて
みると良い」
「何でいきなりお奉行さまが出てくるの!」
苛立った声を上げると、升兵衛はふて腐れたように言った。
「お前の兄さんがそのお奉行さまなのさ」
「まさか。出たらめを言うと許さないわよ」
升兵衛は鼻を鳴らした。
「嘘なんかじゃあるものか。奉行の北山源五ってえのがお前の兄貴だ。ただ
し、血の繋がりは半分しかねえ。お前の母親は北山家の先代の奥方だった。二
千五百石のご大身の奥方が身分違いのさんぴんと乳繰り合って、お前が産まれ
たって寸法よ」
「まさか、浄瑠璃芝居じゃあるまいし」
「だから言ってるだろうが。嘘だと思うなら、北町奉行さまに直接訊いてみ
ろ。そうそう、あの小生意気なガキもいたな」
「他にも兄弟がいたのね」
升兵衛は記憶を手繰り寄せるような眼で頷いた。
「確か―そうだ、源一郎とかいった。まだ小童(こわつぱ)の癖に、随分と小生
意気な野郎だったぜ。俺がお前を連れてゆくときは怖い眼で睨みやがった」
志保の眼が大きく見開いた。
「今、何と言ったの? 北山源一郎ですって」
「おうよ。お前には兄貴が二人いた。一人は歳の離れた北町奉行で、もう一人
が一つ違いの源一郎って小童だった」
「―」
愕然とする志保の耳に、升兵衛の耳障りな声が飛び込んだ。
「流石に血は争えねえ。お前のお袋もさぞや色っぽい女だったんだろうぜ。今
のお前、自分で判ってるのか? 堪らねぇや」
升兵衛が濁った眼で志保を見つめていた。ふいに父が飛びかかってきて、志
保は悲痛な声を放つ。
「何をするの、おとっつぁん、止めて」
暴れる志保の頬を升兵衛は容赦なく張った。右頬に火球が炸裂するような痛
みが走り、志保は悲鳴を上げた。
「なあ、これからはまた、おとっつぁんと一緒に暮らそう。いや、お前は最初
から俺の娘なんかじゃねえ。元々他人同士なんだ、これからは夫婦(めおと)と
して暮らしたって構いやしねえさ」
分厚い手のひらが志保の胸乳を包み込む。寝る前にまた安酒を浴びるように
飲んだのが、顔にかかる息は饐えたような臭かった。
升兵衛は今年、五十二になる。身の丈はさほど大きくはないけれど、屈強な
体?をしており、力もまだまだ強い。到底、力比べで志保が敵うはずもなかっ
た。
「いや―っ」
志保は泣き叫び、一旦はしまった匕首を夢中で取り出した。無我夢中でその
鞘を払い、刃を振り上げて何度か降ろす。
「う、うわーっ」
升兵衛が断末魔の声を上げて、のけぞった。
その隙に志保は慌てて升兵衛の下から這い出た。
升兵衛の身体が血飛沫を上げながらゆっくりと後ろに倒れてゆくのを、志保
は虚ろな眼で見守った。
―おとっつぁんを殺してしまった。
志保は血に濡れた匕首をしげしげと見つめた。十八年間、仮にも父と呼んだ
人を自分はこの手で殺めてしまったのだ。
だが、父から与えられたのはすべて偽物の愛情だった。なのに、自分はその
偽物の愛に縋り付き、後生大切に信じてきたのだ。