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霞み桜 【後編】

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 戸惑う志保の身体中を肥後守の不躾な視線が這い回った。
「そなたは気付いておるのか? そのように薄物の夜着では、何も身に付けて
おらぬのと同じよ」
 指摘され、志保は初めて我が身の全身を見回した。言われたとおりだった。
あまりにも頼りない薄物の生地は、身体の線を隠し切れていない。―どころ
か、乳房や胸の蕾、果ては両脚の狭間の淡い茂みまでくっきりと透けて見えて
いた。
 羞恥と恐怖がない交ぜになり、志保は狼狽え視線を揺らした。恥ずかしさの
あまり、白い膚がうっすらと桜色に染まってゆくのを肥後守は愛でるように眺
めている。
「可愛いのう、そのようなことで恥じらうとは。生娘であるというそなたの父
親の話は真のことであろうな。そなたが生娘ということで、父親は儂から取る
金子の額を随分とつり上げたのだ。その分、初物の味をたんと味わわせて貰わ
ねばの。よしよし、今宵は儂が手取り足取り教えてやろうほどに。この世の法
楽を幾度も見せて、そなたを極楽に送ってやろう。その惚れた男とやらの許に
帰りたければ、儂が一晩中愉しんだ後、帰るが良い」
 いきなり伸びてきた手が志保の胸を包み込んだ。豊かな胸を嫌らしく揉み込
まれる。それだけでなく、肥後守は揉みしだいた乳房のの突起を夜着の上から
執拗に親指で押し込んだ。
「―いやっ」
 生温い口が夜着の上から薄紅色の乳首を銜え引っ張るように吸う。肥後守が
口を放したときには、唾液で濡れた夜着の上から色味を増した乳首が鮮やかに
染まって丸見えだった。
 また滲みだらけの手が伸びてくる。志保は悲鳴を上げ、後方に飛び退った。
「さあ、こちらへおいで。この世の法楽を教えてやろう」
 欲望に顔を染めた老人のあまりのおぞましさに、志保は泣きながら渾身の力
をこめて両手を突っ張った。
―北山さま、助けて下さい。
 瞼に浮かんだのは、こんなときも北山源一郎であった。
突き飛ばされた老人は呆気なく転んだ。亀が引っ繰り返って手足をばたつか
せているような格好だ。これが天下を意のままに動かした老中とは思えないほ
ど無様な老醜を曝した姿である。
 志保はそのまま襖を開けて部屋を飛び出した。隣には小さな部屋が一つあ
り、そこを出ると庭に面した廊下に出た。
 裸足で庭に駆け下り、夢中で走った。涙の幕で曇った視界に薄紅色がよぎ
り、ハッとする。夜陰の底でひっそりと咲いていたのは秋海棠であった。部屋
の方が俄に騒がしくなった。人声が近づいてくる。このままでは捕まってしま
うと、志保は秋海棠から視線を?がし、夜の深い闇へと身を躍らせた。 
  
 丁度その同じ時刻、源一郎は役宅で既に寝んでいた。
 彼はその夜もやはり、夢を見た。あの十八年前の哀しい別離の記憶は今もこ
うして彼を苛む。
 秋の盛り、庭に咲き誇っていた秋海棠の花、たった一人の大切な妹の無邪気
な笑顔。
 瓔子が連れ去られてゆく。赤ら顔のいかつい男が大切な妹を連れ去ってゆく
のだ。夢はいつも同じことの繰り返しだった。
「瓔子、行くな。行ってはならぬ」
 源一郎は知らず寝言で呟いていた。
 そのときだった。
―北山さま、助けて下さい。
 耳奥で確かに志保の声が響いて、源一郎はパッと眼を開いた。
「夢、か」
 またあの夢かと額に乱れ落ちた前髪をかきあげた。しかし、夢にしては妙に
生々しい声だ。
 志保に何かあったのだろうか。源一郎は不安を宿した瞳で淡い闇を見つめ
た。得体の知れぬ不安が源一郎の中で大きく渦巻き始めていた。

 裸足のままで歩き続けた両脚が痛い。志保は一旦立ち止まり、自分の足許を
見た。草履も履かず歩いたため、足の裏は小石で傷つき、薄く血が滲んでさえ
いる。
 志保はしばらく休んでから、また一歩ずつゆっくりと歩き始めた。だが、今
は脚の痛みよりも心が痛かった。
 肥後守の屋敷を逃れてから、志保は怯えながら逃げた。あの屋敷は肥後守の
住まいではなく、別宅か何かなのだろう。本邸ならば、もう少し広く、人がい
ても良いはずだが、人の気配は殆どなかった。もしかしたら、あそこは肥後守
が女を連れ込んで?お愉しみ?をするための場所なのかもしれない。
 屋敷をぐるりと囲んだ築地塀に沿って庭を進むと、ほどなく小さな門が見え
た。両開きの扉は閉ざされていたものの、少し力を押しただけで難なく開い
た。閂さえ掛かっていなかった。そのことからも、あの屋敷が普段は使われて
いないことは推察できるというものだ。
 幸いにも追っ手に捕まることもなく―大体、そのようなものが放たれたのか
も疑問だが―、志保はここまで来られた。志保は小さな橋のたもとでふと歩み
を止めた。
―この桜は霞み桜というのね。
 奇しくも、志保が舞の披露目で舞った演目と同じ名だ。あれは古来から伝わ
る舞ではない。師匠と志保が二人がかりで考え作り上げた新しい舞だ。
 この桜の名を教えてくれたのは源一郎だった。確か結衣といったか、源一郎
の恋人だった女の話を聞かせてくれた。
 吉野屋の庭で彼は確かに志保に?好きだ?と告げた。源一郎は誠実な人だ。
その言葉に嘘はないのだろう。だが、志保はどうしても源一郎と自分が共に歩
いてゆくという未来を思い描けない。
 源一郎を確かに好きだと思うのに、それが何故なのか、志保には判らなかっ
た。
 たとえ源一郎と共に人生を歩いてゆけなくても良い。彼がずっと結衣という
娘を忘れなくても良い。志保は志保で彼への想いを大切にひっそりと生きてゆ
く。
 ただ想うだけ、恋するだけならば、誰の迷惑にもならない。
 志保の胸に哀しみの波が押し寄せた。
―おとっつぁんが私を売った―。
 肥後守は確かに言った。升兵衛が志保の身体と引き替えに肥後守から多額の
金子を受け取ったと。
 最後まで信じていたその想いも裏切られた。今、志保の心を覆っているのは
深い絶望だけだ。人はあまりに哀しみが過ぎると、涙も出なくなるらしい。志
保はそのことを初めて知った。
 今はただ?父?と話をしたい。あの人が本当に私の父だったのか、それと
も、?父?という偽りの面を被った赤の他人だったのか。それを知りたかっ
た。
 志保は霞み桜に背を向け、橋を渡り町人町へとまた歩いた。橋を渡り切って
数歩あるいたところで、もう一度名残惜しげに背後を振り返り、宵闇にひっそ
りと佇む桜をひとしきり眺め、未練を振り切るかのようにまた歩き出した。
 志保は小さな息を吐き出した。伊勢屋の看板の前で、改めて十八年間、我が
家だと信じ続けてきた場所を見上げる。宵闇の底で、店は静かに眠っているよ
うに見えた。志保はそのまま勝手口に回り、そこから父と志保が暮らす棟に脚
を踏み入れた。
 普通、お店は夜には用心のために錠を下ろすものだろうが、生憎と伊勢屋は
そんな必要はない。今の伊勢屋には盗み出すものなぞないと誰もが知っている
からだ。
 ろくに給金も支払えないので、大勢いた奉公人にもやむなく暇を出した。わ
ずかに残った奉公人は数人だが、その中の大半は通いの者ばかりだ。夜は升兵
衛と志保、それにまだ幼い丁稚がいるだけとなる。
 志保は迷うことなく父の寝間に赴いた。黙って障子戸を開くと、升兵衛はだ
作品名:霞み桜 【後編】 作家名:東 めぐみ