霞み桜 【後編】
第二話『秋海棠』
追憶
少年はふと頭上を振り仰いだ。どこまでも涯(はて)なくひろがる空は抜ける
ように蒼く、湖のようだ。ついと視線を巡らせば、小さな淡紅色の花を一杯つ
けた秋の花が今を盛りと咲き誇っていた。
少年は両腕をひろげ、思いきり秋の澄んだ大気を吸い込む。この国には春、
夏、秋、冬とそれぞれに季節があり、彼はどの季節も大好きだ。桜が江戸中を
桃色の雲海のごとく彩る春、緑が陽光を弾いて眩しい夏、紅葉が錦繍のように
艶やかな秋、真白の雪が清楚な少女の膚を彷彿とさせる冬。
「兄上」
ふいに可愛らしい呼び声が秋の大気を震わせ、少年の物想いを中断させた。
彼はゆっくりと振り向く。視線の先には、彼とさほど歳の変わらぬ少女が佇ん
でいる。いや、少女と呼ぶにはまだ幼く、せいぜいが四歳ほどといったところ
だ。
対する前髪立ちの少年も漸く五歳になったばかりで、まだ幼児の域を抜け出
ない。だが、生まれながらに聡明で、いささか才走った感のある彼にとって、
子ども扱いされるということは耐え難い屈辱に等しい。ゆえに、彼の周囲の大
人たちは誰一人として彼をあからさまに子ども扱いはしなかった。
実際、まだ漸く五歳になったばかりだというのに、彼を取り巻く雰囲気は何
とはなしに屈託ない子どもらしさ、無邪気というものがまるで感じられなかっ
た。
それはやはり、実の両親と早くに死に別れ、兄夫婦の許で厄介になっている
という引け目が彼を妙に子どもらしからぬ子どもにしているのかもしれない。
もっとも、彼とは親子ほども歳の離れた兄もその妻である義姉も彼を我が子の
ように慈しんでくれており、彼には何ら不満はないはずだった。
それでもなお、両親に甘えたいはずの歳の幼子が兄夫婦の許で育つというの
は、子どもに想像以上の負担を強いていたのである。
「瓔子(ようこ)」
少年は自分を無心に見つめている童女に微笑みかける。親代わりの兄に対し
てでさえ、見せたことのない優しい笑顔だ。
良い眼だと思った。まだ幼いのに、年齢に似合わぬ力強さが妹のつぶらな瞳
には確かに輝いていた。
「秋海棠(しゆうかいどう)がほら、あんなに綺麗に咲いております」
愛らしい声で告げた妹に、彼はいっとう優しい笑みを向ける。
「本当だ。そなたの名前の元となった花だね」
彼の愛する妹の名は耀子という。四年前、この彼がこよなく愛する妹がこの
世に産声を上げた朝も、秋海棠が美しく秋の庭を彩っていた。妹の名はその花
にちなんで名づけられたのだと聞いている。
今はもう亡き母がそのように名づけたいと熱心に希望したのだと。秋海棠は
文月から神無月にかけて咲く秋の花だが、別名を?瓔珞(ようらく)草?ともい
うのだと教えてくれたのは、母であったか。
彼が三つになった年、母は亡くなった。わずか二年前のことなのに、まだ幼
すぎた彼はそのときの記憶が朧だ。後に兄から母は流行病(はやりやまい)で儚
くなったと聞かされている。
「兄上、また、あの人が来ているのです」
不安げに幼い面を曇らせた妹に、彼は首を傾げた。
「おかしいな。私も兄上には何度も申し上げたのだけれど」
二、三ヶ月ほど前から、彼の家に商人風の男が足繁く訪れるようになった。
その度に瓔子は兄に呼ばれ、その男と対面する羽目になった。
―兄上、あの人は私を怖い眼で見るのです。
ある日、妹から訴えられ、彼は兄に頼んだ。
―瓔子が怖がっています。何ゆえ、あのような怪しい男と瓔子を引きあわせる
のですか?
思慮深い兄のことだから、何か考えがあってのことに相違ないと思うしかな
かった。その時、兄は笑って
―判った。
と言ってくれたはずだった。だが、それ以降も、その胡乱な男はこの屋敷を
しばしば訪ねて、妹はその度に兄に呼ばれて彼と逢っている。
「兄上、私、怖い」
ふいに妹の小さな身体が突進してきて、まだ小柄な彼は危うく転びそうにな
ったところを踏ん張った、妹の身体に両腕を回して、しっかりと抱き止める。
「大丈夫だよ。私がいる限り、燿子には誰も何もできない。お前のことは私が
全力で守るから」
「兄上」
なおもひしとしがみつこうとする妹の背がピクリと震えた。彼方から呼び声
がする。
「お嬢さま、燿子さま」
あれは妹の乳母の声だ。
「兄上、私はあの人に逢いたくない」
縋りつこうとする小さな手を彼は力をこめて握りかえした。
「大丈夫、私がいる限り、そなたを危険な目に遭わせるものか」
「瓔子さま、どこにいらっしゃいますか〜」
近づく乳母の声に、幼い兄妹は顔を見合わせた。彼は妹の眼を覗き込み、再
度安心させるように微笑みかけた。
「行っておいで。兄上のご命には誰も逆らえないし、また、兄上に恥をかかせ
てもいけない。別に、あの男がそなたに何か害を加えたりはしないのだろ
う?」
「ええ、それはそうですけど」
やって来る男はいつも兄の傍に控えている瓔子に強い視線を向け、わずかに
言葉を交わすだけだ。特にそれ以上の何があるわけでもなく、後は兄と男が会
話しているのを瓔子は聞くだけ。
「瓔子さまー」
呼び声が近くなった。妹は観念したように頷いた。
「それでは行って参ります」
「ああ」
彼は笑顔で妹を見送った。だが、まだ幼い面に浮かんだその笑みは妹が秋海
棠の茂みの向こうに行ってしまうと、あとかたもなく消えた。
―兄上は一体、何をお考えになっているのだろう。
二十一歳になっている兄は五歳の彼とは十六も歳が違う。その大人の兄の思
惑など、五歳の子どもに判るはずもない。ただ一つだけ判るのは、何か―確た
る証はないけれども怖ろしいものが自分たち兄妹に降りかかろうとしているこ
とだけだ。
その時、既に彼はいずれ妹を見舞うことになる残酷な宿命を漠然と予感して
いたのかもしれない。
彼は思慮深げな黒い瞳を庭の秋海棠に戻した。彼がこの世で最も大切だと思
う妹の名をと同じ花、可憐な花が秋風に微かに揺れていた。
それから数日後、彼の不安は突如として現実となった。その日の朝、?あの
人?が屋敷を訪れ、瓔子を連れ去ったのだ。
「兄上、兄上っ」
泣きじゃくる瓔子をあの男が抱き上げ、連れ去ろうとする。彼は必死でその
男に追いつき叫んだ。
「何をする、無礼であろう」
だが、その男はいかつい赤ら顔にギョロリとした眼で彼を蔑んだように見つ
めた。
「無礼とは心外な申され様ですな。私は兄君さまより許しを得て、いえ、兄君
さまから託されて妹御をお預かりするのですぞ」
「そのようなはずがない。兄上が妹をそなたに託すなど、あり得ない」
小さな顔を真っ赤にして抗議する彼に、その男は嘲笑めいた笑いで応えた。
「それでは兄上さまにお訊ねになられてみればよろしいでしょう。私は兄上さ
まとのお約束を果たしたに過ぎません」
「兄上〜」
つぶらな瞳に大粒の涙を浮かべた瓔子が救いを求めるように手を差しのべ
た。その手を取ろうとした彼は背後から逞しい腕に抱き止められた。
「放せっ、何をする!」
「源一郎、堪(こら)えよ、堪えるのだ」
それは彼が尊敬して止まぬ兄の声だった。その間に、泣き叫ぶ妹はあの男に
追憶
少年はふと頭上を振り仰いだ。どこまでも涯(はて)なくひろがる空は抜ける
ように蒼く、湖のようだ。ついと視線を巡らせば、小さな淡紅色の花を一杯つ
けた秋の花が今を盛りと咲き誇っていた。
少年は両腕をひろげ、思いきり秋の澄んだ大気を吸い込む。この国には春、
夏、秋、冬とそれぞれに季節があり、彼はどの季節も大好きだ。桜が江戸中を
桃色の雲海のごとく彩る春、緑が陽光を弾いて眩しい夏、紅葉が錦繍のように
艶やかな秋、真白の雪が清楚な少女の膚を彷彿とさせる冬。
「兄上」
ふいに可愛らしい呼び声が秋の大気を震わせ、少年の物想いを中断させた。
彼はゆっくりと振り向く。視線の先には、彼とさほど歳の変わらぬ少女が佇ん
でいる。いや、少女と呼ぶにはまだ幼く、せいぜいが四歳ほどといったところ
だ。
対する前髪立ちの少年も漸く五歳になったばかりで、まだ幼児の域を抜け出
ない。だが、生まれながらに聡明で、いささか才走った感のある彼にとって、
子ども扱いされるということは耐え難い屈辱に等しい。ゆえに、彼の周囲の大
人たちは誰一人として彼をあからさまに子ども扱いはしなかった。
実際、まだ漸く五歳になったばかりだというのに、彼を取り巻く雰囲気は何
とはなしに屈託ない子どもらしさ、無邪気というものがまるで感じられなかっ
た。
それはやはり、実の両親と早くに死に別れ、兄夫婦の許で厄介になっている
という引け目が彼を妙に子どもらしからぬ子どもにしているのかもしれない。
もっとも、彼とは親子ほども歳の離れた兄もその妻である義姉も彼を我が子の
ように慈しんでくれており、彼には何ら不満はないはずだった。
それでもなお、両親に甘えたいはずの歳の幼子が兄夫婦の許で育つというの
は、子どもに想像以上の負担を強いていたのである。
「瓔子(ようこ)」
少年は自分を無心に見つめている童女に微笑みかける。親代わりの兄に対し
てでさえ、見せたことのない優しい笑顔だ。
良い眼だと思った。まだ幼いのに、年齢に似合わぬ力強さが妹のつぶらな瞳
には確かに輝いていた。
「秋海棠(しゆうかいどう)がほら、あんなに綺麗に咲いております」
愛らしい声で告げた妹に、彼はいっとう優しい笑みを向ける。
「本当だ。そなたの名前の元となった花だね」
彼の愛する妹の名は耀子という。四年前、この彼がこよなく愛する妹がこの
世に産声を上げた朝も、秋海棠が美しく秋の庭を彩っていた。妹の名はその花
にちなんで名づけられたのだと聞いている。
今はもう亡き母がそのように名づけたいと熱心に希望したのだと。秋海棠は
文月から神無月にかけて咲く秋の花だが、別名を?瓔珞(ようらく)草?ともい
うのだと教えてくれたのは、母であったか。
彼が三つになった年、母は亡くなった。わずか二年前のことなのに、まだ幼
すぎた彼はそのときの記憶が朧だ。後に兄から母は流行病(はやりやまい)で儚
くなったと聞かされている。
「兄上、また、あの人が来ているのです」
不安げに幼い面を曇らせた妹に、彼は首を傾げた。
「おかしいな。私も兄上には何度も申し上げたのだけれど」
二、三ヶ月ほど前から、彼の家に商人風の男が足繁く訪れるようになった。
その度に瓔子は兄に呼ばれ、その男と対面する羽目になった。
―兄上、あの人は私を怖い眼で見るのです。
ある日、妹から訴えられ、彼は兄に頼んだ。
―瓔子が怖がっています。何ゆえ、あのような怪しい男と瓔子を引きあわせる
のですか?
思慮深い兄のことだから、何か考えがあってのことに相違ないと思うしかな
かった。その時、兄は笑って
―判った。
と言ってくれたはずだった。だが、それ以降も、その胡乱な男はこの屋敷を
しばしば訪ねて、妹はその度に兄に呼ばれて彼と逢っている。
「兄上、私、怖い」
ふいに妹の小さな身体が突進してきて、まだ小柄な彼は危うく転びそうにな
ったところを踏ん張った、妹の身体に両腕を回して、しっかりと抱き止める。
「大丈夫だよ。私がいる限り、燿子には誰も何もできない。お前のことは私が
全力で守るから」
「兄上」
なおもひしとしがみつこうとする妹の背がピクリと震えた。彼方から呼び声
がする。
「お嬢さま、燿子さま」
あれは妹の乳母の声だ。
「兄上、私はあの人に逢いたくない」
縋りつこうとする小さな手を彼は力をこめて握りかえした。
「大丈夫、私がいる限り、そなたを危険な目に遭わせるものか」
「瓔子さま、どこにいらっしゃいますか〜」
近づく乳母の声に、幼い兄妹は顔を見合わせた。彼は妹の眼を覗き込み、再
度安心させるように微笑みかけた。
「行っておいで。兄上のご命には誰も逆らえないし、また、兄上に恥をかかせ
てもいけない。別に、あの男がそなたに何か害を加えたりはしないのだろ
う?」
「ええ、それはそうですけど」
やって来る男はいつも兄の傍に控えている瓔子に強い視線を向け、わずかに
言葉を交わすだけだ。特にそれ以上の何があるわけでもなく、後は兄と男が会
話しているのを瓔子は聞くだけ。
「瓔子さまー」
呼び声が近くなった。妹は観念したように頷いた。
「それでは行って参ります」
「ああ」
彼は笑顔で妹を見送った。だが、まだ幼い面に浮かんだその笑みは妹が秋海
棠の茂みの向こうに行ってしまうと、あとかたもなく消えた。
―兄上は一体、何をお考えになっているのだろう。
二十一歳になっている兄は五歳の彼とは十六も歳が違う。その大人の兄の思
惑など、五歳の子どもに判るはずもない。ただ一つだけ判るのは、何か―確た
る証はないけれども怖ろしいものが自分たち兄妹に降りかかろうとしているこ
とだけだ。
その時、既に彼はいずれ妹を見舞うことになる残酷な宿命を漠然と予感して
いたのかもしれない。
彼は思慮深げな黒い瞳を庭の秋海棠に戻した。彼がこの世で最も大切だと思
う妹の名をと同じ花、可憐な花が秋風に微かに揺れていた。
それから数日後、彼の不安は突如として現実となった。その日の朝、?あの
人?が屋敷を訪れ、瓔子を連れ去ったのだ。
「兄上、兄上っ」
泣きじゃくる瓔子をあの男が抱き上げ、連れ去ろうとする。彼は必死でその
男に追いつき叫んだ。
「何をする、無礼であろう」
だが、その男はいかつい赤ら顔にギョロリとした眼で彼を蔑んだように見つ
めた。
「無礼とは心外な申され様ですな。私は兄君さまより許しを得て、いえ、兄君
さまから託されて妹御をお預かりするのですぞ」
「そのようなはずがない。兄上が妹をそなたに託すなど、あり得ない」
小さな顔を真っ赤にして抗議する彼に、その男は嘲笑めいた笑いで応えた。
「それでは兄上さまにお訊ねになられてみればよろしいでしょう。私は兄上さ
まとのお約束を果たしたに過ぎません」
「兄上〜」
つぶらな瞳に大粒の涙を浮かべた瓔子が救いを求めるように手を差しのべ
た。その手を取ろうとした彼は背後から逞しい腕に抱き止められた。
「放せっ、何をする!」
「源一郎、堪(こら)えよ、堪えるのだ」
それは彼が尊敬して止まぬ兄の声だった。その間に、泣き叫ぶ妹はあの男に