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霞み桜 【後編】

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返していたのか。お前はとんだ淫乱な売女だな。実の母親の血を引いてるんだ
ろうよ。
 つい今し方聞いたばかりの升兵衛の言葉が志保の心を引き裂いた。
「お願い、誰か嘘だと言って」
 これまで升兵衛から実の親について聞かされたことはなかった。初めて耳に
した科白がこれだったなんて。
 志保はその場に泣き崩れた。
―北山さま。北山さま。
 源一郎に逢いたかった。あの広い懐に抱きしめて、優しく髪を撫でて欲しか
った。だが、こんなことを考えるのは父の言うように、自分が実の母親に似て
淫乱だからだろうか。
 ふと心配になる。
―実の親のことを知りたいと思うか?
 優しく問いかけた源一郎の声を訊きたい。源一郎に?大丈夫だ、そんなこと
はない?と言って貰えれば、それだけで耐えられる気がした。
 だが、源一郎は今、ここにはいない、いないのだ。志保の眼に新たな涙が滲
んだ。
 
 その日の夕刻、伊勢屋の前に駕籠が横付けされた。仮にその駕籠がいかにも
立派なものであれば、志保も何らかの疑念を抱いただろう。けれど、その駕籠
は至って簡素なもので、志保が普段使うようなものと変わらなかった。
 升兵衛が居室に閉じ籠もりきりの志保を案じて、吉野屋のお紺に知らせてく
れたのだという。昼八ツ頃、父が再び姿を見せた。
「悪かったな、さっきはおとっつぁんも言い過ぎた。お前がどうしても嫌だと
いうなら、肥後守さまからのお話はお断りしようと思う」
 父は別人のように優しい声音で語り、志保の大好きな随明寺門前の茶店の桜
団子を持ってきてくれた。志保はそれを食べながら、
―やはり、おとっつぁんは思っていたとおりのお人だった。
 と、父への信頼は間違っていなかったことを改めて痛感した。
 だから、暮れ六ツになり、吉野屋のお紺が心配して
―気散じに遊びにきて。
 と、駕籠を寄越してくれたと父から聞いたときも、ろくに疑いもしなかっ
た。
 志保はその駕籠に乗り込み、吉野屋へと向かった。
 何かがおかしいと感じたのは、いつまで経ってもいっかな吉野屋に着かなか
ったからだ。吉野屋と伊勢屋はさほど離れているわけではない。駕籠を使うほ
どでもないのだ。
 志保の中で警鐘が鳴った。おかしい、よくよく考えれば、お紺が駕籠を寄越
して遊びにきてと言うことなど今までなかった。肥後守さまのことであれほど
口論した父が急に手のひらを返したように優しくなったのが嬉しくて、志保は
つい深く考えることをしなかった。
 駕籠が止まった。外から筵(むしろ)が持ち上げられ、志保は蒼白な顔で降り
立った。志保を出迎えたのは、能面のような無表情を顔に貼り付けた老女だっ
た。
 その身なりや物腰から、大身の武家に仕える者だと判る。連れてこられたの
は大きな屋敷で、志保が見たこともないような立派な調度品が備えられている
部屋だった。
 何が何やら判らぬままに湯殿に連れてゆかれ、そこで湯浴みをするようにと
命じられる。湯殿はさして広くはないが、檜作りで満々と清潔な湯を湛えた贅
沢なものだ。志保には縁のない世界のものだ。
 湯浴みを終えると、先ほどの老女がまた現れ、白い夜着姿の志保に化粧を施
した。洗い髪はまだ乾いてはいないが、後ろで緩く束ねた。白粉は薄かった
が、紅は冬に咲く紅椿を彷彿とさせるほど艶やかな色を乗せた。化粧が終わる
と、また老女に連れられ、最初に案内された座敷に戻った。
 瀟洒な飾り付けがされた居室は、こんなときでなければ、ゆっくりと見物し
てみたいと思っただろう。床の間には純白の白百合が青磁の花器に幾本も投げ
入れられ、鞠の形をした美しい塗香炉からは甘い香りのお香が立ち上ってい
る。
 ここはどこなのか。志保は立ち上がり、不安に瞳を揺らした。吉野屋ではな
いことだけは確かだし、一体自分がどうなるのか不安でならなかった。あの老
女は志保をここに案内するなり、消えてしまった。だが、呼べば来てくれるか
もしれない。
 今のところ、この屋敷で出逢った人といえば、あの無口で無愛想な老女だけ
なのだから、まずはあの老女に訊ねてみるのがいちばんだろう。
 そう判断して襖を開きかけたその時、外側から襖が開いた。志保を見てニヤ
リと口の端を引き上げたその人物は、どう見ても七十は近いと思われる老人で
ある。
 刹那、駕籠に乗ってからずっと鳴っていた警鐘がひときわ大きく轟いた。こ
の人は間違いなく稲葉肥後守さまだ!
 呆気に取られる間もなかった。襖を閉めて入ってきた老人は新たに買い入れ
た備品を検分するような視線でしげしげと志保を見やる。
 その粘ついた嫌らしげな視線に、志保の身体中の膚という膚がザッと粟立っ
た。実のところ、薄物の夜着は志保の身体の輪郭を隠してくれるのに十分では
なかった。普通の布よりもかなり薄地で仕立てられているため、身体の線が灯
火にしっかりと照らし出されてしまっている。
 動揺している志保はそのことにまるで気付いていない。唐突に老人が志保の
手を取った。
「おお、寒い時節というわけでもないに、手がこのように冷とうなっておる。
さあ、儂が直々に温めてやろうほどに、こちらへ参るが良い」
 見かけは小柄で痩せぎすの年寄りだが、細い眼は炯々と光り、その口調には
対する者を有無を言わさず従わせる何かがある。他人に命令し従わせてきた支
配者だけが持つ傲岸さとでも言えば良いのだろうか。
 志保は逆らうすべもなく、老人に手を取られて上座に導かれた。手を取られ
たまま座るように促され座った志保の傍らに彼も座る。
「フム、あの日の桜の精と見紛うような艶姿も良いが、このような清楚な方が
そなたには似合うようじゃ」
 ?あの日?というのが、舞の披露目が行われた日であることは判った。
 稲葉肥後守といえば、八年前まで無能な将軍に成り代わり、幕政を取り仕切
っていたといわれるほどの権力者であり、切れ者だ。ここで志保が懇願すれ
ば、情理に添った判断で伊勢屋に帰らせてくれるのではないか。
 志保は肥後守の人柄に一縷の望みを託した。彼女はいきなり両手をつかえ、
畳に頭をこすりつけた。
「お願いにございます」
 突然のなりゆきに、肥後守は愕いたようである。
「何だ?」
 志保はいっそう頭を垂れた。
「私を伊勢屋にお戻し下さいませ」
 好いた方がいるのですと、か細い声で続けた。その拍子に、肥後守の表情が
一変したが、ずっと顔をうつむけている志保は見ることはなかった。
「ホウ、好いた男がおるとな」
 妙に優しい声で問われ、志保は儚い希望を抱いて顔を上げた。肥後守がつと
手を伸ばし、志保の艶やかな髪を撫でた。
「その男とは既に情を交わしているのか?」
 志保の頬が染まった。狼狽え、首を振る。
「とんでもございません」
「その男は恐らく、みずみずしいそなたにふさわしい若者であろうの?」
 畳みかけるような問いに、つい志保は頷いてしまった。その瞬間、肥後守の
双眸に妖しく嫉妬の焔(ほむら)が燃え立ったのも知らずに。
「あい判った。そなたをその若造にくれてやっても良い」
 肥後守の皺深い顔は残酷な笑みを刷いていた。
「ただし、それは儂がそなたを味見してから後じゃ」
「え―」
作品名:霞み桜 【後編】 作家名:東 めぐみ