霞み桜 【後編】
前は綺麗な着物を着て身を飾り放題、毎日、食べ尽くせぬほどの山海の珍味を
食べられる。この世の極楽を見られるぞ」
志保は怒鳴る父を哀しい想いで見つめた。
「おとっつぁんは、それで私が幸せになれると思うの?」
升兵衛はコホンと咳払いした。
「もちろんだとも。お前は気随気儘の贅沢三昧ができる。それに万が一、お前
が肥後守さまの御子を産めば、儂は前老中さまの息子のおじじさまではない
か! この儂が天下の大名家と血繋がりを持つことができるなんざ、夢のよう
だ」
父は既に志保が肥後守の子を身籠もったかのように夢見る瞳で熱弁をふるっ
ている。あまりの醜さに、志保は父から眼を背けた。
父が志保の幸せよりは我が身の立身を―ふいに舞い込んだ大名家と繋がりを
持つという幸運に酔いしれているのは明らかだ。
「肥後守さまはもう七十近いのよ? 子どもができるかどうかも判らないし、
生まれる子が男かも判らないのに」
気のなさそうに言う志保に、升兵衛はここぞとばかりに顎を突き出した。
「だからこそだ! 良いか、志保。よく聞きなさい。そなたはこれから一刻も
早く肥後守さまの許へ上がらなければならない。肥後守さまは何といってもご
高齢ゆえ、確かに、そうそういつまでもお元気とは限るまい。だが、現に去年
の暮れには末の若君がお生まれになっている。今ならば、お前にもまだ機会は
あろう。肥後守さまの気が変わらぬ中にお手つきとなり、御子を身籠もらね
ば」
「―」
志保は言葉を失った。父は今度ばかりは本気だ。今すぐにでも志保を肥後守
の許に送り込みかねない勢いに、志保は気圧された。
「おとっつぁん、私は嫌、肥後守さまのお屋敷には行きたくない」
升兵衛がギョロリとした眼を更に大きく見開いた。
「何を言うんだ、志保。やっと儂にも運が向いてきたんだ。まさに千載一遇の
この好機を掴まないでどうするっ」
「私の幸せを本当に考えてくれるのなら、お願いだから、思いとどまって」
その時、升兵衛がフッと笑った。志保の表情が凍り付いた。
「おとっつぁん、こんな大切な話をしているときに、何がおかしいの?」
もしかして、自分が思い通りにならないから父は気が狂ったのかとさえ思っ
たほどだ。
升兵衛の顔にはあからさますぎる嘲笑が浮かんでいた。
「お前は儂が本気でお前の幸せを願っているとでも思うのか?」
「何を言ってるの、おとっつぁん」
志保の唇が戦慄いた。
「この儂がお前を優しさや慈悲で引き取ったと思っているのか? 馬鹿な娘
だ」
升兵衛がせせら笑った。
「確かに最初のほんの一時は、お前に娘としての愛情を感じたこともあった
さ。お前を引き取るときは実子として大切に育てようとも思った。断っておく
が、そのときの気持ちに偽りはなかった」
父の眼が、声がふと遠くなった。
「いつからだったんだろうな。多分、緋桜(ひおう)太夫にすげなく袖にされ
ちまってからかもしれない」
升兵衛は一時期、吉原の花魁に入れ上げていたことがある。その頃はまだ伊
勢屋も羽振りは良く、升兵衛は花魁を歓ばせるために高価な装身具を惜しげも
なく買い与え、惣仕舞を行った。惣仕舞というのは、吉原遊廓すべてを一晩貸
し切ることだ。
当然ながら、金は想像を絶するほど必要とする。そんなことを繰り返したも
のだから、堪ったものではない。そんな頃、同業者と共同出資して行う山口の
塗碗販売を手がけることになった。
結果として、その立ち上げた新規事業は失敗、升兵衛はすべてを失い、伊勢
屋の身代はかつてないほど傾いた。升兵衛はそれでも花のような花魁の笑顔が
忘れられず、吉原へ通った。しかし最高級の太夫ともなれば、金がすべての世
界だ、一文無しになった升兵衛を花魁が相手にするはずもなかった。
升兵衛は登楼さえできず、門前払いという屈辱を与えられた。
―緋桜の言葉は全部真っ赤な嘘だったんだ。
升兵衛は泣きながら、酒を浴びるように飲んだ。遊廓で遊女が客に囁く科白
をいちいち真に受けるのは愚かなことだ。それは遊び人であれば誰でも知って
いる。
―あっちには、主さんだけでありんす。
女が男の腕の中でやわらかく蕩けて囁く睦言を本気にした方が悪い。それま
で生真面目で商売一途だった彼は廓には廓での常識があることをついぞ知らな
かった。
しばらくして、升兵衛は今度は岡場所に通い始めた。また若い女に入れ上げ
て、乏しい店の収入を持ちだしては女のために遣い、挙げ句には裏切られる、
その繰り返しだった。
「あるときから、儂はお前に対する情の一切を棄てた。それからは、いかに金
持ちのところにお前を嫁がせ、儂に恩返ししてくれるかばかりを考えてたぜ」
志保は何か言おうとして、ヒュッと喉を喘がせた。言葉にならない大きな感
情が哀しみとなって胸に押し寄せる。
「私は、おとっつぁんを信じていたのに」
「なあ、志保。おとっつぁんの言うことを大人しくきいて、肥後守さまの許に
行きな。きっとお前は幸せになれる。そして、儂にも夢を見させてくれ。行き
場のないお前を儂は四つのときから引き取って面倒を見てきた。そろそろ俺も
その見返りを貰っても良い頃合いじゃねえのかい」
志保の眼から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「おとっつぁん、お願い、好きな男(ひと)がいるの。嫁ぐのなら、私はその男
が良い。お願いだから、肥後守さまのところに行けなんて言わないで」
升兵衛の顔が憤怒に歪んだ。
「何だと? 惚れた男がいるって? そんなのは初耳だ。お前、おとっつぁん
に隠れて、男と逢い引きなんぞしてたのかっ」
志保は夢中で首を振った。
「違うわ、そんなことはしてません。あの方とはただ何度か逢ってお話しした
だけよ」
「許さん、絶対に許さんぞ。お前は肥後守さまの許に上がる大切な身だ。その
前に余計な虫がついたと知れれば、折角の儲け話が無駄になる」
「おとっつぁん、儲け話って」
志保は涙声で呟いた。やはり、父は自分のことを単なる利を得るための手駒
だとしか考えていない。それが堪らなく辛かった。情で育ててくれたわけでは
なく、打算しかなかったと知った今、志保は受けた衝撃があまりにも大きすぎ
て、震えが止まらなかった。
「お前の惚れた男ってえのは、どこのどいつだ? 儂が今すぐ行って、ぶっ殺
してやる」
升兵衛の剣幕を見れば、本当に今にも匕首を持って飛び出していきかねない
ように見える。怒りに土気色の顔を歪めたその形相はさながら般若のようだ。
今更ながらに、源一郎の名前と身分を明かさなくて良かったと思った。
升兵衛が嗤った。
「それにしても、血は争えないものだ。儂の眼を盗んで、男と逢い引きを繰り
返していたのか。お前はとんだ淫乱な売女(ばいた)だな。実の母親の血を引い
てるんだろうよ」
「―!」
父、いや今まで父と信じていた男の科白は更に志保を打ちのめした。
「おとっつぁん」
縋るように呼んでも、升兵衛は振り向きもしなかった。荒々しい物音を立
て、志保の前で襖が閉まる。それは十八年間、父と信じ慕ってきた人との関係
が修復不可能なまでに潰えた瞬間でもあった。
―それにしても、血は争えないものだ。儂の眼を盗んで、男と逢い引きを繰り