霞み桜 【後編】
の姿に眼を細め、志保は手許の白と黄、紫の小菊をそれぞれ数本ずつ鋏で伐り
取った。更に傍らの秋海棠も幾本か摘み取ってから、居室に戻った。
備前焼の花器は長方形をしているため、摘み取ったばかりの花たちを手に持
って色々な角度から眺めつつ、それぞれに活ける場所を決めてゆく。
生け花は志保の好きな稽古事の一つであった。しかしながら、それも昔のこ
とになってしまった。昔は琴、裁縫、染色、生け花とたくさんの習い事に通っ
ていたものだ。それも伊勢屋の羽振りがまだ良かった時分のことで、今は舞の
師匠の厚意で束脩なしに稽古させて貰えるから、舞だけは何とか続けられてい
る。
半月ほど前の舞の披露目の会を思い出し、志保の頬は我知らず熱くなった。
「あんなにはしゃいでしまって、年甲斐もないったら、ありしゃない。きっと
北山さまには呆れられちまったわね」
志保は呟き、小さな溜息をついた。考え事に耽るあまり、手の方が疎かにな
っている。慌てて数種類の菊と秋海棠を花器に活けた。すべてを生けおわった
時、またひとり言が口をついて出た。
「近頃、どうも私、妙だわ」
北山源一郎のことが気になってならない。何をしていても、源一郎の端正な
風貌がふととした拍子に浮かび、つい彼のことばかり考えてしまい、何一つ、
ろくすっぽ手につかない。
披露目の会の後、吉野屋の庭で、源一郎と二人だけで逢った。あの時、源一
郎は泣き出した志保を優しく抱きしめて、口づけまで―といっても額にだけれ
ど―した。
そこまで思い出して、志保の頬は燃えた。
「もしかして、私は北山さまを好きなのかしら」
言ってしまってから、誰もいないかと慌てて周囲を気にする。二十二にもな
っていながら、まるで十代の少女みたいではないか。愚かなものだと自分でも
思った。
そのときだった。
「志保」
唐突に名を呼ばれ、志保は飛び上がった。父升兵衛には源一郎と知り合った
ことは告げていない。難波屋の主人との見合いは結局、実現することはなく終
わった。
ごり押しすれば自害すると志保が父に迫ったせいもあるかもしれない。噂に
よれば、難波屋が若い後妻を貰うつもりだと妾に知れ、妾が刃物を持ちだして
難波屋に斬りつけたという刃傷沙汰になったという。
―お前さんって人は十年以上連れ添ったあたしという女がいながら、今になっ
て娘よりも若い後添えを貰うだって? あたしを馬鹿にするのも良い加減にお
しよ。
妾に斬りつけられた難波屋は衝撃と恐怖のあまり、昏倒したが、切り傷はか
すり傷程度のものだった。難波屋は恐れをなしてこの縁組みを断ってきて、来
月にはその妾を正妻に直すことにしたらしい。
妾のためにも、その方が良かったと志保はつくづく思った。妾の言い分では
ないけれど、確かに十年余りも尽くしてきた男がいきなり若い後妻を迎えると
聞けば、逆上もするだろう。
自分は一体、男の何だったのかと喚きたくなるのも理解はできる。
幸か不幸か難波屋との縁組は流れたが、この先、父がまた意に添わぬ縁談を
持ってくる可能性は大いにありそうだ。源一郎の話など持ちだしたら、二度と
逢わせぬと言われそうで怖かった。
「おとっつぁん」
志保は強ばった笑顔を貼り付けた。今のひとり言を父に聞かれてはいなかっ
たかと思うと、気が気ではない。
だが、升兵衛は聞いてはいなかったらしく、特に変わった様子はない。ひそ
かに胸を撫で下ろしていると、升兵衛がつかつかと歩いてきて、我が物顔でど
っかりと腰を下ろした。
「なかなか良い」
父は志保が活けたばかりの花を見て、感心したように幾度も頷いた。
「志保は儂の自慢の娘に育ってくれた。諸芸万端、女としての教養はすべて身
に付けさせたつもりだ」
いささか恩着せがましい物言いはいつものことだ。志保は気にせず、小首を
傾げた。
「どうしたの? おとっつぁんが褒めてくれるなんて、珍しいのね」
升兵衛が志保を真正面から見据えた。冷たい色を帯びたその眼(まなこ)を見
て、志保はゾッとした。父がこういう眼をするときは大抵、何か良からぬこと
を企んでいる。
志保は全身に緊張を漲らせたが、面にはあくまでも笑顔を貼り付けていた。
父の計略をかいくぐるためには、けして感情的になってはならない。こちらも
冷静でいて、上手く交わさなくては。
志保が微笑みかけても、升兵衛は笑わなかった。まるで商人がこれから客に
売りつけようとする品物を値踏みするような視線で志保を無遠慮に見つめてい
る。
「お前ほどの女ならば、どこにやっても恥ずかしくはない。たとえ、お大名の
奥方にだってなれるさ」
父の表情も口ぶりもあまりに真剣そのものだ。さもなければ、突拍子もない
話に志保は何かの冗談と思うか、さもなければ笑い出していたことだろう。
「おとっつぁん、何を馬鹿なことを言ってるのよ。私がお大名の奥方だなん
て」
「いや、馬鹿なことじゃない」
升兵衛はまたも真顔で首を振った。志保は更に警戒を強めた。
「それは、どういうこと?」
升兵衛が我が手柄のように誇らしげに言う。
「お前をさるお大尽が見初めて下さったんだよ」
「え?」
言葉の意味が判らず、志保は眼をまたたかせた。升兵衛の将棋の駒にも似た
赤ら顔が笑み崩れた。
「前老中でいらっしゃる稲葉肥後守さまがお前を屋敷に迎えたいとたってのご
所望だ、志保」
刹那、志保の瞳が升兵衛を射るように大きく見開かれた。
「前老中さまがどうして私を?」
そこで、あ、と、志保が口を掌(てのひら)で覆った。
「この間の舞いの会ね?」
「そうだ、あの時、肥後守さまは孫姫さまの舞をご覧になるため、お忍びでお
運びになっていたそうな。お前は孫姫さまの次に舞った。肥後守さまは孫姫さ
まの出番が終わり次第、直ちにお帰りのご予定だったところ、お前の舞い姿が
あまりにも美しく見事であったため、予定を延ばされてご観覧になったそうだ
ぞ。何とも、ありがたいことではないか」
父は感極まっているようだが、志保は少しも嬉しくないどころか、むしろ、
恐怖が背筋を這い上ってくるのを感じた。
稲葉肥後守といえば、もう七十近い老人のはず。去年、その老齢で若い妾を
身籠もらせて子を産ませたと江戸市中でも皆が好奇心半分、嘲笑半分で噂した
ものだ。志保はあまりそういった品のない話題は好まないため、詳しくは知ら
ない。だが、肥後守の?武勇伝?くらいは知っていた。
「お前もこれで晴れてお大名の奥方だ。いや、こうなってみれば、難波屋なん
ぞの小物に大切なお前をくれてやらなくて良かった」
喜色も露わな父とは裏腹に、志保の心はしんと冷めてゆくばかりだ。
「何がそんなにありがたいの?」
「何―だって?」
升兵衛のいかつい顔には驚愕が浮かんでいる。
「おとっつぁん、言っておきますけど、肥後守さまには畏れ多くも御三家から
入輿されたご正室さまがいらっしゃるでしょ。私なんかが奥方になれるはずが
ない。私は奥方ではなくて、お側妾として迎えられるんじゃない?」
升兵衛がう、と、言葉につまった。自棄になったかのように言い募る。
「どちらでも同じことだ! どちらにせよ、肥後守さまのお屋敷に行けば、お