霞み桜 【後編】
ここで、志保が帯を解いた。あっと皆が固唾を呑んで見守る中、彼女は鮮や
かな身のこなしで薄桃色の振袖を脱ぎ棄て、今度は純白の振袖で舞い始める。
幸せなひとときの夢は突如として途切れた。少女は目覚め、惚れた男との束
の間の邂逅が夢であったと知る。
いつしか降り注いでいた花びらは雪と化し、少女は今度は降りしきる雪を浴
びながら舞う。
己れが見た満開の桜は何であったのか。夢で逢った愛しい男はどこにいった
のか。
春爛漫の風景が消えた後は、ただ寒々とした空に花も葉もない枝となった桜
樹が凛然と佇むばかり。
―そは現か幻か。我が見し夢は束の間の幻と知る。ー
金屏風の前には何もない、ただ舞い踊る志保がいるだけだ。だが、そこには
確かに舞い散る桜、降りしきる雪が見えた。
背後に座った三味線を持つのが舞の師匠らしい。師匠のかき鳴らす曲に、歌
いあげる歌に合わせて志保は軽やかに舞った。それこそ、彼女自身が桜の花の
精、化身と変化(へんげ)したかのように。
見事な舞であった。しんと水を打った静寂の中、突然、乾いた拍手が沈黙を
破った。見れば、片隅に座した肥後守が手を打っていた。つられるように拍手
がまばらに起き、次の瞬間には割れるような喝采になった。
志保はいつもより濃い化粧の上からでも判るほど頬を紅潮させている。深々
と観客に向かって頭を下げた。
志保の舞が終わると、お忍びで訪れていた肥後守は早々と帰っていった。
「本当なら、孫姫さまが舞い終えたら、すぐにお帰りになるはずだったそう
よ」
「でも、その次の?幻桜?は素晴らしかったもの。お殿さまがご覧になりたい
と思われたのも判るわ」
「まさか、あの娘を見初められたのかしら」
「馬鹿言わないでちょうだい。肥後守さまはもう齢(よわい)七十でしょう。幾
ら何でも孫のような年若い女をお召しにはならないんじゃない?」
「あら、実は」
と、噂好きらしい女房が隣の女房に囁いた話は源一郎を不快というよりは不
安にさせるものだった。
肥後守の女好きは有名で、いちばん若い側室はまだ十九歳になったばかりだ
という。しかも、その側室は去年の末、肥後守にとっては第十一子となる男児
をあげた。残念ながら赤児はほどなく夭折したが、七十近くなってもいまだに
精力旺盛な肥後守の?快挙?は江戸の下町でも面白おかしく取り沙汰された。
女房たちの娘はしまいの方に出たようで、我が娘たちの出番には得意のお喋
りも止めて真剣に見入っていた。
すべての演目が終わり、源一郎は吉野屋の裏庭で志保を待った。
「北山さま」
弾むような足取りで駆けてくる志保は着替えこそしていたものの、化粧はま
だ舞台化粧のままだった。
どうもいつもの志保ではない別の女性と対峙しているようで、源一郎は眼の
やり場に困った。先刻、舞台で帯を解いていたときの志保のなまめかしい女ら
しさ、匂い立つような色香を思い出し、頬が熱くなった。
「見事だった」
もっと他に気の利いた科白が言えないものかと我ながら呆れたが、出てきた
のはこんなものだ。
「お忙しいのに、わざわざお越し下さり、ありがとうこざいます」
黒い瞳は常以上に生き生きと輝いている。身体全体で歓びを表現する志保を
源一郎は眩しげに見つめた。
「何と言って良いか判らぬが、いつもの志保どのとは別人のようだった」
「それでは褒めているのかどうか、判りません」
拗ねたように言うのに、源一郎は頭をかいた。
「済まん。さりながら、俺は朴念仁で女を歓ばせる科白一つ言えんのだ。これ
くらいで勘弁してくれ」
「ふふ、お仕事でお忙しいのに見にきて下さったのですもの、許して差し上げ
ます」
いつになく軽口を言う彼女を眼を細めて見つめ、源一郎も笑った。
「こいつめ、生意気だぞ」
伸ばした手を引っこめようとして、源一郎の手はわずかに宙をさまよった。
彼は伸ばした手で志保の額をチョンとつつき、次いで髪をくしゃくしゃと撫で
た。
「まあ、北山さまったら、私を子ども扱いなさるのですね」
どうしても志保に触れたいという衝動を抑えられなかった我が身を恥じつ
つ、源一郎は曖昧な笑みを浮かべた。何かその場の空気を変えるような話題を
と咄嗟に口にする。
「しかし、あれだけの舞を会得するには、相当かかったであろうな」
と、志保の華やいだ表情が翳った。
「私は特待生としてここに通わせて頂いているのです」
「特待生?」
志保は頷いた。
「お師匠さんがこれと見込んだ弟子の中から一人、束脩なしで稽古を付けて頂
ける生徒のことです。稽古代だけでなく衣装代などの掛かりもすべて無償なの
で」
なるほど、あれだけの舞を披露するからにはさもありなんと源一郎は納得し
た。が、志保は源一郎の科白の意味を取り違えてしまったらしい。
「何もかも、お師匠さんの厚意でさせて頂いているのに、私ったら得意満面で
はしゃいでしまって、恥ずかしいですね」
源一郎は焦った。
「いや、俺は何もそういう意味で言ったのでは」
言いかけた源一郎を見上げた志保の瞳は露を宿した夜空のように潤んでい
た。源一郎は刹那、その瞳に心を鷲掴みにされた。
「そなたの舞は群を抜いていた。俺は無骨者で舞のことはとんと判らぬが、そ
んな俺にも素晴らしいものだとは理解できた。そなたはその才能ゆえに特待生
として稽古を付けて貰っている。己れの力を活かしてのことなのだから、何も
恥じる必要はない」
志保の瞳から、つうっと涙の雫がしたたり落ちた。次の瞬間、源一郎は衝動
的に志保を引き寄せ、抱きしめていた。
「俺はそんな志保どのが好きだ」
囁く自分の声をその時、源一郎は他人のもののように遠くで聞いていた。
いけない、この娘は妹だぞ。
いや、これは十八年も前に別れた瓔子ではない。生き別れになった日、妹は
死んだ。今、俺の腕の中にいるのは妹ではなく、志保というまったく別の娘
だ。
二人の自分の声が耳の中で鳴り響き、彼は自分が怖ろしくなった。
―俺は本当に血を分けた妹に惚れてしまったのか?
幾ら志保を瓔子だと思い込もうとしても、はるか昔に別れたきりの幼い妹の
姿と、美しく成長した志保の今の姿はあまりにもかけ離れていた。
「志保」
源一郎は腕の中の温もりを更に引き寄せた。眼尻にほんのりと差した紅はい
つもはないもので、それが志保の艶やかさを際立たせている。
源一郎は思わず志保に唇を重ねようとして、すんでのところで思いとどまっ
た。一見、別人のように見える志保の顔立ちの中に、一瞬だけ確かに十八年前
に別れた妹の面影を見たからだ。
だが、どうにも志保に触れていたいという気持ちまでは止められず、彼は彼
女の愛らしい唇を塞ごうとした唇をそっと額に押し当てた。
―俺は一体、何をしているんだ。
志保が妹であることを忘れて、彼女への想いが深まってゆく。源一郎はそれ
を嫌というほど自覚していた。
腕の中の志保は男とのこのような拘わりには不慣れなせいか、小さく震えて
いた。
再びの別離
白い蝶がひらひらと忙しなく羽根を動かしている。花から花へと飛び交うそ