霞み桜 【後編】
秘密と拘わらない方がかえって瓔子のためなのだ。その兄の心情が理解できる
だけに、源一郎は今は志保となった瓔子と我が身が偶然知り合ったということ
は敢えて告げなかった。
むしろ、告げれば、兄はもう志保には逢うなと止めるに違いない。本音を言
えば、源一郎はそれがいやだったのである。漸く逢えた妹との仲をまたしても
裂かれるのはご免だ。が、その想いの中には、?瓔子?ではなく?志保?にこ
れからも逢いたいと願う男としての気持ちが幾ばくか含まれていた。そのこと
を源一郎自身は意識していなかった。
それからほどなく、源一郎は別邸を辞去した。
「そなたとこうしてゆっくり語らうのも久しぶりだ。茶でも飲んで、ゆっくり
としてゆけ」
「いえ、まだ奉行所に戻って残りの仕事を片付けねばなりませんので」
それは事実ではあったけれど、今はまだ知ったばかりの秘密があまりにも重
すぎて、兄といつものように心から打ち解けて話せる気分ではなかった。
源五もそれを察したのか、それ以上、引き止めることはなかった。
源一郎が志保から踊りの発表会に誘われたのは、暦が長月に入ってほどなく
のことだった。見憶えのある伊勢屋の丁稚が奉行所までわざわざやって来て、
志保からの結び文を渡したのだ。
そのせいで、源一郎はまたしても年上の同輩たちからさんざんからかわれる
ことになった。
「何だ何だ、付け文が舞い込んできたのか。良いなー、若ぇヤツは。俺もあと
十年若かったらな」
ぼやく三十過ぎの同心を傍らの同じ歳頃の同心がつついた。
「寝ぼけたことを申すな。そなたの面相では十年若かろうと、たいした女は寄
ってこんだろうが。せいぜい、今のおかめ女房どのを大事にすることだな!」
「何だと、何がおかめだ」
「それなら、山猿と言ってやろうか、それではあまりに失礼ゆえ、遠慮して申
したのだ、何か文句があるのかっ」
「大ありだ。貴様のように三十路になっても嫁の来手がない独り者に言われた
くないわっ」
この二人は仲が良いのだが、しょっちゅう、こうやって口喧嘩を始める。案
の定、それを見ていた他の同心たちが顔を見合わせ、?また始まったか?と苦
笑していた。
上座に座った与力の新田和馬が声を張り上げた。
「進藤、村上、喧嘩する暇があるなら、書庫の資料の片付けをしてくれ」
「チッ、貴様が余計な喧嘩を売ってくるからだぞ」
「何を、猿女房を猿と言って何が悪い」
「まだ言うか!」
にらみ合っている二人を横目に、源一郎はそっと席を立ち、奉行所の外に出
た。門から出て往来を歩きながら文を開くと、志保からの文だったというわけ
である。
九月に入り、真夏の悪夢のような酷暑も幾分はやわらいだ。朝夕にははや、
風がひんやりとして早い秋の脚音を感じさせる日もある。
その日は気温がぐっと下がり、江戸の町には秋らしい爽やかな蒼空がひろが
った。季節を表すかのように、空には刷毛で描いたような鱗雲が浮かんでい
る。
それでも北町奉行所から町人町まで徒歩(かち)でゆけば、およそ四半刻はか
かる。?吉野屋?と大きな看板の掲げられた海産物問屋に到着した時、源一郎
はかなりの汗をかいていた。
額から流れ落ちる汗を手ぬぐいで拭い、おとないを告げると、裏に案内され
た。使用人たちが出入りする勝手口とは別の家族用の出入り口から上がり、磨
き抜かれた廊下を辿った先は大きな座敷であった。
流石は江戸でも指折りの身代といわれる大店である。志保によれば、この吉
野屋の娘お紺が踊りの稽古仲?であり、今度の発表会は吉野屋の座敷を借り切
って行われるとのことだった。
志保が通っている舞の師匠の邸宅はこじんまりとしているため、発表会など
はできない。名の通った師匠ゆえ、弟子たちは皆、大店の娘、旗本の娘など上
流階級の息女が多い。そのため、定期的に催される発表会はそういう弟子たち
の中で場所を提供できる者の家を持ち回りで行っているらしい。
源一郎が到着したときには既に披露の会は始まっていた。当然ながら、大勢
の人で広間は埋まっていた。大方は今日、出演する娘たちの晴れ姿を見にきた
家族、知り合い、親族といったところだろう。
披露の会の後はそのまま市中見廻りに出向こうと思っていたから、特に着替
えてこなかった。そのため、紋付き巻羽織の同心姿はこのような場では目立つ
ことになった。それでなくても、同心は江戸の女たちの熱い視線を浴びる存在
なのだ。
若くて眉目良い同心が女たちばかりの集まりの中に混じっているのは、嫌が
上にも人眼を集める。源一郎はたいそう外聞が悪く、こんなことなら役宅に戻
って着替えてくるのだと後悔しても遅かった。
居心地の悪い想いをしていると、俄に入り口の方が騒がしくなった。低い囁
き声が聞こえてくる。
「稲葉肥後守さまでいらっしゃるそうよ」
「まあ、前(さきの)ご老中さまの稲葉さま?」
その声に源一郎は背後をさりげなく振り返った。煌びやかな頭巾を被って顔
を隠しているが、その上物の羽織袴姿から、その人物が武士、それもかなりの
身分だとはひとめで知れた。
仮に女たちの噂、つまりその人物が稲葉肥後守であるとすれば、大変なこと
だ。稲葉肥後守は数年前に引退はしたものの、在職時代は公方さまのお覚えも
めでたく、筆頭老中として羽振りを利かせていた。その勢力はいまだに健在で
あり、幕閣においても隠然たる発言力を有していると噂されている大物だ。
だが、そんな大物が何故、このような町方の若い娘の舞の発表会などに姿を
現したのか。それは謎だ。
その応えはすぐに判った。稲葉肥後守の外孫になる娘がこの披露会に出演し
ているからだった。英雄色を好むの諺どおり、肥後守は十指に余る侍妾を侍ら
せ、正室腹脇腹合わせて二十人近い子福者だという。その庶出の娘が嫁いだの
がさる旗本で、今回の披露会に出るのはその孫娘だという話だ。
源一郎はそれらの話を隣に居合わせた年増の女房連のひそひそ話を通じて知
ったのだった。大勢いる庶子の、更に嫁いだ娘の生んだ孫ではあるが、肥後守
が特に可愛がっているらしい。
直にその娘の舞が始まった。下手ということもないが、取り立てて上手いと
いうこともない、無難な出来だ。源一郎には舞踊の心得はとんとないが、それ
くらいのことは見ていて判る。
その演目が終わり、次の舞い手が登場した。薄桃色の豪奢な振り袖には流水
と舞い散る桜の花びらが大胆に描かれている。結い上げた漆黒の髪には桜を象
った簪が揺れていた。
最初、源一郎はそれが志保であるとは判らなかった。艶やかな装い、更には
いつになく華やかな化粧のせいで、記憶にある彼女よりは数倍も美しく見え
た。
演目は?霞み桜〜幻桜〜?と紹介される。
ひらひらと薄紅色の桜が舞い散る。
満開の桜の下にひっそりと佇む少女が一人。
少女はうららかな春の風に誘われて、樹下でしばし微睡みの夢を見る。
夢の中で、少女は恋しい男と逢っていた。季節は春、二人は微笑み交わし、
手に手を取り合って春爛漫の歓びを分かち合う。
二人の上には無数の桜の花びらが雪のように降り注ぐ。