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霞み桜 【後編】

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主馬もそれ以上断ることはできず、やがて祝言の運びとなった。
 だが、誰もが望ましいと思えたこの婚姻の陰には無残に摘み取られた恋があ
ったのだ。主馬、更には妻となった貴久(きく)(源一郎の母)、どちらもそれ
ぞれ末を言い交わした恋人がいたのである。
 主馬には幼いときに親が決めた許婚がいたし、貴久はひそかに交際していた
男がいた。何の因果か、その男が主馬の通う道場仲間であり、彼の無二の親友
井藤だった。主馬は北山家に婿入りするに際して、許婚とは破談になり、以降
は二度と元許婚と縁が交わることもなかった。
 が―。貴久の方はその恋人と別れがたい想いがあったのだろう、主馬と祝言
を挙げてから一度はきれいに縁を絶っていたにも拘わらず、十六年後にふとし
た再会がきっかけで昔の恋が再燃することになった。
 井藤の方もまた貴久を忘れがたかったのか、再会したときはまだ独り身であ
った。
 そこまで兄の話を聞いた源一郎は蒼白な顔で訴えた。
「母上が父上以外の、他の男と拘わりを持っていたとおっしゃるのですか!」
 最後は悲鳴のような叫びになり、源一郎は唇を噛みしめた。
 源五が深い息を吐き出した。
「だとしたら?」
「そんな―」
 源一郎は絶句した。あまりの展開に、思考が、いや心がついてゆけていな
い。
「しかも、母上とその井藤某との縁は一年近くも続いた。最初は二人とも自重
していたようだが、その中に一線を越えて許されぬ関係となった」
 源一郎の声が震えた。
「兄上、まさか瓔子は」
 源五が頷いた。
「さよう、瓔子はまさしく我らの妹ではあるが、父上の子ではない。母上が許
されぬ関係を持った井藤という侍の子だ」
「―!」
 源一郎はうつむき、込み上げてくる涙の塊を飲み込んだ。刹那、世にも怖ろ
しい考えが湧き上がり、彼は兄を見つめた。
「まさか、兄上、俺も―」
 だが、それには源五は笑って首を振った。
「安心致せ。母上が井藤とわりない仲になったのは、そなたが生まれた後のこ
とだ。それは父上からお聞きしておるゆえ、間違いはない」
 源一郎は頭を殴られたような衝撃を受けた。
「父上はすべてをご存じだったのですか!」
 源五はそのときだけ哀しげな表情で頷いた。
「ご存じであった。それゆえ、お腹を召したのだ」
 源一郎は呼吸するのさえ忘れて、兄の言葉を反芻した。父が、俺の誇りだっ
たあの父上が切腹―。父が亡くなった当時、幼い源一郎に伝えられたのは?父
の病死?であった。
 駄目だ、到底受け容れられない。源一郎は最早、涙を隠そうともせず、兄を
見た。
「源一郎、父上のご胸中は察するに余りある。長年連れ添った妻が他(あだ)し
男と密通し、あろうことか、その相手は兄弟とも信頼していた親友であった。
恐らく父上は相当に悩まれたに違いない。妻も友も父上にとっては大切なもの
であり、どうしても断罪することはできなかった」
 源五の声もいつしか涙声になっていた。
「その上、男、良人、武士としての矜持もある。大切な二人に裏切られたとい
う絶望と二人への断ち切れぬ情の狭間で父上は苦しみ抜かれ、ついに選ばれた
のは死でしかなかった」
 すべての真相は父が遺した書状によってつまびらかになった。どのような想
いで父がこその遺書をしたためたのか。当時は源五も十八歳とまだ若く、これ
だけの重い秘密を受け容れるのは容易ではなかった。
 ほろ苦く語った源五が遠い眼になった。
「母上については、私が殺したも同然だ」
「兄上―」
 茫然と見つめ返した源一郎に、源五は訥々と話した。
「まだ若すぎた私は到底、真実に耐えられず、ある日、爆発した。母上に泣き
ながら父上の無念を訴えたのだ」
―あなたは鬼だ。天女のような外見で父上ただけでなく、私や源一郎を裏切っ
た。
 詰る源五に言い訳をするでもなく逆らうでもなく、貴久はただ黙って息子に
詰られるままだった。
「母上が自害されたのは、その夜だ。私はそなたに恨まれて当然のことをし
た。私が母上を追いつめ死なせたのだからな」
 源五はどこか虚ろな声で言った。
「あの日の光景を私は忘れない。泣き叫ぶ私を母上の膝に取り縋った瓔子が無
邪気な笑顔でにこにこと見上げていた。私はまるで汚いものを見るかのよう
に、幼いあの子から眼を逸らした」
 源一郎は溢れる涙を拭い、兄に問うた。
「ですが、兄上は母上亡き後もすべてを知りながら、瓔子をお手許で育てられ
ていた。なのに、何ゆえ突如として里子に出してしまわれたのか解せませぬ」
 或いは源五が母の罪の象徴である妹をこれ以上北山家に置いておきたくない
と考えたという可能性もあった。だが、兄はどれだけ取り乱そうと、思いとど
まれることのできる人だし、そこまで狭量な男ではない。
 ならば、何故―。源一郎の物問いたげな視線に応えるかのように、源五がど
こか淋しげに見える笑いを浮かべた。
「悪しき噂が立った」
「悪しき―噂ですか?」
 源五は頷いた。
「どうも井藤の家の誰かが母上との密事を迂闊に口にしてしまったらしい。そ
のため、知り合いの中にも瓔子の出生の秘密についてあれこれと取り沙汰する
者が出てきた。事実、瓔子は父上の胤ではないが、中にはそれ以上の聞くだに
穢らわしいような―母上が井藤だけでなく数人の男と関係を持っており、瓔子
は誰の子さえ判らない、そんな酷い噂まで流れ始め、これ以上あの子を当家に
置いておくわけにはゆかなくなったのだよ」
 源五はまた煙管を銜えた。白い煙を眼で追いながら淡々と言う。
「それが瓔子のためにもいちばん良いと思った。忌まわしき噂や因縁から一度
すべて拘わりを絶ち、まったく新しき生を生きるのがあの妹のためにも良いと
な。武家ではいつまた噂の種にされるやもしれず、信頼できる町方の者にあの
子を託した」
 信頼できる者と、今、兄は確かに言った。であれば、確かに伊勢屋は信頼す
るに足る男だったのだろう、少なくとも昔は。
 源一郎は静かな声音で訊ねた。
「妹はどうしていますか?」
「知りたいか?」
 頷く源一郎に、源五は力ない笑みを浮かべた。
「安堵せよ、今はさる商人の娘として幸せに暮らしておろう」
 その言葉に引っかかりを憶え、源一郎は更に問いを重ねた。
「兄上ご自身は瓔子の消息をご存じないのですね」
 源五が煙管をポンと煙草盆に打ちつける音がやけに静寂に響いた。
「今更知ったとて、何になろう。儂はこの男ならと信頼して瓔子を託した。そ
の瞬間から、あの子とこの北山家の縁(えにし)は切れたのだ。むろん、陰なが
ら妹の人生が幸多きものであることを祈ってはいるが、既に儂のあずかり知る
ところではない」
 その兄の言葉は冷酷でもあったけれど、恐らくはそれが最も正しい道なので
あろうことは源五も理解した。
 幼すぎた自分には何も知らされなかったが、長男であり十八歳になっていた
源五はその時、あまりにも重すぎる過酷な真相をすべて一人で受け容れ耐えな
ければならなかった。兄は兄で十分に苦しんだ。
 何も知らずに今日までのうのうと生きていた自分に、今更、兄を責める資格
があるとは思えなかった。
 瓔子が北山家から去った理由が出生の秘密だとするならば、その忌まわしい
作品名:霞み桜 【後編】 作家名:東 めぐみ