霞み桜 【後編】
行、町奉行の一つだ。その中で勘定奉行と町奉行が旗本から任ぜられるのに対
し、寺社奉行だけは大名から選ばれた。そのようなことからも、三奉行の中で
は寺社奉行が最も格が高く、有する権限も絶大なものがある。
源五は今の筆頭老中饗庭(あえば)主膳頭禎胤(よしたね)からの信頼も厚
く、いずれは加増されて寺社奉行に昇るのではないかと囁かれていた。
源一郎はそんな兄を心底から尊敬していた。その想いは源一郎がまだ幼い前
髪立ちであった時分から変わらない。そんな兄が謂われもなく幼い妹を伊勢屋
に養女に出したとは思えず、そのことからも我が身がこれから聞くであろう話
がけして愉快なものではないことを察していた。
「どうした、顔色が冴えぬな」
座敷に入ってきた源五は奉行所内とは異なり、上司ではなく弟を気遣う兄の
顔だった。源一郎は兄に一礼し、上座に座った兄と向かい合う形で下座に座っ
た。
「いえ、ご心配には及びません」
努めて平静を装おうとするが、いかんせん、顔が強ばってしまうのはどうし
ようもない。切れ者として通っているとはいえ、源一郎はまだ二十三歳の若者
にすぎなかった。
源五はそんな弟を感情の読めない眼で見つめ、嘆息した。
「瓔子のことについて訊ねたいということだったが」
源一郎は軽く頷いた。
「さようにございます」
源五は首を振った。
「とうに他人になった妹の消息を今更訊ねて何とする」
源一郎は端座した膝の上で揃えた両手に力をこめた。
「兄上は何故、瓔子を里子に出したのでございますか?」
源五はしばし天井を見上げ、ホウと息を吐いた。
「その話に関しては、芳野からそなたに話して聞かせたということではない
か」
源一郎はうつむいた。力を入れすぎた両拳が白くなっている。
「はい、確かに義姉上より承りました。当家に最初に生まれた女子は不吉な存
在で後々、当家に災いをもたらすゆえ、里子に出したのだと。ですが、それを
言うなら、我らの母上も長女でした」
母は一人娘であったゆえ、婿を迎えて家督を継ぐ必要があった。家名の存続
のために家を出されることはなかったのかと、源一郎はこれまで自分を無理に
納得させてきた。
しかし、考えてみれば、それがこじつけにすぎないことは判っていた。
源五は傍らの煙草盆を引き寄せた。愛用の煙管に火を付けながら、抑揚のな
い口調で言う。
「その話に関しては、それ以上でも以下でもあるまい」
源一郎はついと膝をいざり進めた。
「兄上、俺はもう五歳の童ではございません。そのような埒もない迷信にあっ
さりと納得できるとお思いですか?」
「埒もない迷信が時にすべてを解決してくれることもある。世の中には知らぬ
方が良いこともあるのだぞ、源一郎」
源五がくゆらせる紫煙が細い煙となって立ち上ってゆく。源一郎には兄の心
が読めなかった。源五は慈しみ深い兄ではなく、能吏と評判の北町奉行の顔に
なっている。源一郎のような経験も浅い若造が束になってかかっても敵う相手
ではない。
策を弄しても勝ち目はない。こうなれば、正直に自分の気持ちを吐露し、兄
から必要な情報を引き出すしかないと源一郎は判断した。
「兄上、瓔子が里子に出された裏には、何か別の経緯があったのではございま
せんか?」
その瞬間、源五の静まり返った湖のような顔にわずかな動揺が走った。が、
そのわずかな動揺はすぐにいつもの怜悧な奉行の顔の下に隠された。
「どうでも知りたいと申すか?」
永遠に思える沈黙が続いた後、源五が沈黙を破った。源一郎は兄の眼を見つ
め、しっかと頷いた。
源五が押し黙り、また二人の間に沈黙が漂った。ただし、今度の沈黙は長く
は続かなかった。源五はしばし煙を上目遣いに追っていたが、やがて視線を源
一郎に戻した。
「それを知ることによって、そなたが今まで信じてきたものすべてが崩れ去る
ことになっても良いと申すのだな、それだけの覚悟があるのだな」
源一郎は俄に背筋が冷たくなり、身体が震えた。兄がこれから話そうとして
いることは、それほどの大事なのだ。できることなら、耳を塞いでこの場から
逃げ出してしまいたいと思う。けれど、それでは何も変わらない。
十八年前に一体、何があったのか? 幼い妹が北山家を去らねばならないほ
どの変事があったというのなら、それが何なのかを源一郎は知らねばならな
い。
「すべて覚悟致しております」
声が震えないで言えたのは、我ながら立派だと思った。源五は頷き、眼線を
源一郎に合わせた。
「良かろう、そちももう二十三。そろそろ妻を娶り、一家を構えても良き年頃
にあいなった。できることならば、そなたには何も知らさぬままにしておきた
かったが、そなた自身がどうでも知りたいと言うのなら、敢えて隠し通すこと
もあるまい」
源一郎は兄が切り出すのを待てず、急き込んだ。沈黙に耐えられなかったの
だ。
「兄上、十八年前に何があったというのですか」
源五はそれでもなお、躊躇しているように見えた。が、余計な雑念を払うか
のように首を振り、ゆっくりと語り始めた。
「正確にいえば十八年前ではない、話はもっと昔に遡るのだ」
「それは、どういう意味でございますか?」
うむ、と、源五は腕組みをして眼を閉じた。源一郎は今度は辛抱強く兄の言
葉を待った。どうやら兄自身をもってしても、何をどのように説明すれば良い
のか語るべき言葉を見つけるのが難しいようであったからだ。
こんな兄を見るのは初めてのことで、これから兄が話そうとしている一件が
いかに深刻かは知れるというものだ。
「そなたは父上が婿養子であることは存じておろうな」
何故、そこで父の話が出るのか計りかねつつも、源一郎は頷いた。
「はい、もちろん存じております」
源五、源一郎兄弟の父、北山主馬(しゆめ)源義(もとよし)は八百石の旗本
石澤氏から婿に入った身である。当時、北山家は加増前の二千五百石であった
ものの、それでも、石澤氏とは釣り合いの取れない大身であった。
しかし、当時の北山家当主、つまり、先々代、源一郎たちにとっては祖父が
俊才の評判が高い主馬の噂を聞きつけ、その人柄を見込んで是非にと娘婿に迎
えた。それが今から四十年前の出来事になる。
その頃、八百石取りの五男坊が二千五百石の大身へ婿入りしたことは、かな
りの評判になった。?女ならば、とんだ玉の輿?と陰口を叩かれたほどの破格
の出世であった。
もとより、主馬はこの縁談を再三、丁重に辞退している。
―何故、このありがたきお話をそなたはお受けせぬのか。
と訊ねた父親に対し、
―己れの力で得た出世ならばともかく、婿入りした婚家の威光でできる出世な
ぞ、何の魅力もございませぬ。
きっぱりと言い切ったという。暗に妻の力で出世などしたくないと言ったも
同然であった。その話を聞いた源一郎の祖父は更に歓び、
―そのような気概のある男こそ、是が非にも婿に欲しい。
と熱望した。確かに当時、主馬は町の道場においても師範代を務めるほどの
腕前であり、学問においても和漢の書籍を読破し、あらゆる知識にも精通して
いた。
祖父は石澤家に直々に赴いて、頭を下げて婿に来て欲しいと頼んだ。流石に