霞み桜 【後編】
話し込んでいる中に、周囲にははや薄墨を溶いたような薄闇が忍び寄ろうと
していた。
「父が心配しているわ、早く戻らないと」
我に返って狼狽える志保に、源一郎はそれでも訊ねずにはいられなかった。
「志保どの、もし自分の両親が何者か、家族が今もどこかで生きていることが
判ったとしたら、そなたは真の家族に逢いたいか?」
志保の応えに微塵の迷いはなかった。
「いいえ。それはむろん、逢いたくないと言えば嘘にはなりますけど。でも、
今の私は伊勢屋升兵衛の娘ですから。私を引き取って実の娘として育ててくれ
た父のためにも、私はずっと伊勢屋の志保として生きるつもり。だから、かえ
って自分の素性は知らない方が良いのではないでしょうか。それに、私を棄て
た本当の両親や家族もそれなりの理由があったのだろうし、今更、私が生きて
いることを知っても歓ばないと思います」
その志保の応えも、源一郎を打ちのめすには十分だった。志保は、妹は、俺
や兄上を既に切り捨て、伊勢屋を選んだというのか!?
それが理不尽な怒りであることも判っていた。まだ物心つかぬ中に実家から
引き離され、伊勢屋の娘として育った志保にとっては?家族?と呼べるのは伊
勢屋升兵衛ただ一人なのだ。
それから源一郎は志保を伊勢屋の前まで送っていった。その帰り道、彼は再
び和泉橋のたもとまで戻った。すっかり闇に沈んだ霞み桜を眺めながら、彼は
ぼんやりと考えた。
それは違う、志保、いや瓔子。俺はけしてそなたを棄てたわけではない。あ
の時、俺は幼すぎて兄上には逆らえず、ただ、そなたが連れ去られるのを黙っ
て見ているしかなかった。
だが、今の俺はあのときの童ではない。兄上に何があったか問いただし、し
かるべき手筈を踏んで、そなたが幸せになれるように取り計らうことはでき
る。
その瞬間、源一郎の中で?志保?は永遠に消えたはずだった。ある意味で、
彼はまたしても惚れた女を失ってしまったのだ。
志保のような女であれば、新しい道を歩き始めても良いと思い始めた矢先だ
った。だが、考え様によっては、この胸に点った淡い思慕が燃え盛る恋情にな
る前に真実を知って良かったのだろう。
実の妹に手を出すという怖ろしい過ちを犯す前に真実を知れたのは、源一郎
を憐れんだ御仏のせめてもの慈悲であったのかもしれない。
「俺はつくづく女運の悪い男みたいだな」
源一郎は自嘲めいた呟きを洩らし、足許に落ちていた小石を拾い上げた。手
にした石を思いきり投げると、小石は緩やかに弧を描いて和泉橋の下を流れる
川に落ちた。
水面に小さな波紋が生まれる。波紋が消えてもなお、彼はその場に佇んで暗
い水面を眺めていた。
暴かれた真実
どこかで鳥が鋭く鳴く声が聞こえた。物想いに耽っていた源一郎は弾かれた
ように面を上げ、油断なく周囲に視線を巡らせる。その隙のない身のこなしは
もう既に北町奉行所でも随一と見なされる腕利きの同心に戻っていた。
どうも庭先が騒がしい。源一郎は立ち上がり、ゆっくりと座敷を横切った。
夏のこととて小座敷の障子戸はすべて開け放たれ、彼の立つ位置からは広い庭
が一望できる。
庭先を辿っていた彼の視線がつと止まった。庭の片隅に秋海棠の花が咲いて
いた。届くはずもないのに思わず手を伸ばそうとして、彼は苦笑した。
あの花は妹瓔子との想い出を象徴する大切な花だ。彼があの想い出を大切に
していたように、瓔子もまたすべての記憶を失ってさえ、秋海棠の記憶だけは
憶えていた。自分が何者であるかすらも知らず、赤の他人として育った可愛い
妹。彼は瓔子、いや志保が不憫でならなかった。
手を伸ばして触れようとしても、けして触れられぬ花は志保と同じだ。源一
郎は明らかに志保に惹かれ始めていた。そして、その感情はけして妹に対する
兄のそれではなく、男が女を想うときのものだ。
志保を妹だと知ったその時、源一郎は彼女への想いは封印したつもりだった
のに、消したはずの淡い想いはいまだに胸の奥で燠火のようにくすぶってい
る。
ふいに庭を黒い影が掠めた。すわ何事かと源一郎は咄嗟に身構え、腰の刀に
手を掛けた。が、すぐにホウと肩の力を抜いた。
庭を駆け抜けていったのは黒い猫であった。行ってしまうのかと思いきや、
猫は立ち止まり、じいっと源一郎を見ている。その時、彼は違和感を憶えた。
黒猫は何か銜えている。
それは小鳥だった。
「―っ」
源一郎が駆け寄ろうとすると、黒猫は口に銜えていた小鳥を放置し、今度こ
そ逃げた。源一郎は急いで縁廊から庭に降りた。沓脱石の草履を突っかけ、小
鳥に近寄る。だが、小鳥は既に息絶えているらしく、身じろぎもしない。黒い
つぶらな瞳を開いたまま息絶えているのが余計に生々しく、この小さな生きも
のの死を物語っていた。
ふいに小鳥の開いたままの黒い瞳に、志保の輝く瞳が重なった。彼は狼狽え
て首を振る。
何を馬鹿なと思う。何より不吉すぎた。猫に捕らわれて死んだ鳥を見て、志
保を連想するなぞ、自分はどうかしているのだ。惚れた女が十八年も前に生き
別れた妹だと知り、自分は頭がどうかしてしまったのだろうか。
少し神経質になりすぎているのかもしれない。
目白だろうか。綺麗な翡翠色をした小さな鳥だ。源一郎はまだ温かさの残る
小鳥を手にし、その場に小さな穴を掘って亡骸を埋めた。
その上に小さな土山を作り、庭に咲いていた秋海棠の花を一輪摘み取り、供
えた。
どうも嫌な予感がしてならない。これから兄から聞かされる話が自分、いや
志保にとってけして良いものではないことを象徴しているかのようだ。
手に付いた土を無造作に払っていると、背後から兄に呼ばれた。
「源一郎」
彼はゆっくりと踵を返し、座敷に戻った。ここは兄の別邸である。兄が奉行
所内ではなく町外れの別邸に来いと言ったことからも、外聞をはばかる話であ
ることは何となく想像がついていた。
この小座敷は正式な対面ではなく、ごく私的な対面の際に使われることが多
い。そういえば、結衣を初めて兄夫婦に引きあわせたときも、この小座敷を使
った―。またも記憶が過去にさらわれそうになり、彼は慌てて意識を現実に向
けた。
「ご用繁多のところ、わざわざ時間を割いて頂き、申し訳ござりませぬ」
源一郎は軽く頭を下げた。実際、町奉行である兄は毎日、多忙を極めてい
る。兄嫁の芳野などは
―殿のお身体に障りがあるのではと心配でなりませぬ。
と、終始、良人の健康を案じている有り様だ。だが、それは実際、芳野のま
ったくの杞憂というわけではない。町奉行の任期はさして長くはなく、大体数
年ほどのものだ。とはいえ、そのけして長からぬ任期の間には奉行の職務があ
まりに激務なため、体調を崩して亡くなる者もいたのである。
しかし、妻の心配をよそに、源五は日々、精力的に奉行としての勤めをこな
し、奉行所の配下たちからもその豪放磊落で情に厚い人柄は慕われていた。か
といって、奉行としての裁きには情に流されるだけではない。冷静で的確な判
断を下すことができる。
町奉行は老中の配下になり、いわゆる三奉行と呼ばれる寺社奉行、勘定奉