霞み桜
襤褸を纏った乞食かもしれないし、裕福な商人風かもしれない。男なのか女なのかも判らない。喜助の手下には女も数人はいる。いずれもこれまでは彼女らの誰かが引き込みとして押し込み先の商家に潜入してきたのである。
どのようななりをしているか知れずとも、結衣は必ずその者と接触しなければならない。予め周囲に気付かれないように向こうから合図はあるというけれど、結衣は今一つ自信がなかった。
お登勢は幾ら止めても結衣が庭掃除を止めないので、呆れている。
―お内儀さんから何とか言ってやって下さいまし。
お登勢が訴えると、おこうは笑んだ。
―良いことじゃないの。若い娘で今時、結衣のような子はいないわよ? そんなにやりたいなら、させておやり。
そのひと言のお陰で、結衣は今も掃き掃除をしている。今日は思い切って蔵の鍵を見てみるつもりだ。可能ならば、次回は鍵の型も取りたい。
だが、彼女が庭掃除を好きなのは実のところ、引き込みの役目のためだけではない。美濃屋の庭は広大で、様々な草木が植わっているため、見ていて飽きない。
幸いにも蔵のある奥まった場所まで誰にも逢うことなく行け、蔵の鍵も確かめることができた。美濃屋の蔵には千両箱や父祖代々伝えられた名宝が眠っているという。錠前は流石に立派なものだが、型を取ることはできると判断し、次回は早速実行に移すことにした。
その帰り道、結衣はつい油断していた。蔵の側からは離れたので、余計に気を緩めていたのだろう。山梔子が植わっている辺りで立ち止まり、爽やかな白い花をしばし眺めていた。その中にどこからか蝶も飛んできて、ひらひらと白い花に戯れかけるように舞う。
黄色い蝶は小さく愛らしく、忙しなく羽根を動かしてはまた花に止まり、また舞い上がっては別の花に止まる。その様子に思わず微笑んでいると、背後から男の声が聞こえた。
「随分と熱心だな」
突然のことに、結衣は飛び上がった。振り向かずとも、この声が誰のものであるかは知れた。
「申し訳ございません。花があまりにも綺麗だったもので」
頭を下げた結衣の前で、歩いてきた作蔵は止まった。
「いや、お前が熱心に眺めていたのは花ではなく、むしろこちらだろう」
作蔵がつと動いた。結衣がハッとする間もなく、山梔子に止まった小さな蝶は作蔵の大きな手に掴まれ、握りつぶされていた。
「あ―」
あまりの出来事に、声も出ない。作蔵はそんな結衣の前で、握りつぶした蝶を地面に投げ捨て更に脚で踏んだ。
「私は綺麗なもの、美しいものが好きだ。だが、あまりにも美しすぎるもの、愛らしいものはこうして踏みつぶしてやりたくなるんだ」
作蔵の手がつと伸び、結衣の頬に触れた。
「お前は美しいな。先刻の蝶などより、この白い花などより、お前の方がよほど綺麗で可愛い」
そういう生きものほど、私は無性に手に入れたくなるのだよ、そして、手に入れた後はさんざん穢して踏みつぶしてやりたくなる。
男の声が結衣の耳に不吉な呪(まじな)い言葉のように注ぎ込まれる。
「震えているのか?」
人に触れられているのに、これほどに冷たく感じるのは何故だろう? 作蔵の触れた頬が冷たく、そこから氷と化してゆくようだ。結衣は思わず身震いした。
「だが、安心するが良い。踏みつぶす前には、たっぷりと可愛がってやろう。この世の悦楽という悦楽を教え込んでやるから」
彼がスと手を動かし、結衣のすべらかな頬を撫でた。
「お前は既に私の手に囚われた蝶だ。愉しみにしているが良い」
頬に触れた指は呆気なく離れた。作蔵は低い声で笑いながら、踵を返し去ってゆく。結衣は茫然とその後ろ姿を見つめた。
緩慢な動作でしゃがみ込み、無残に潰された蝶を見つめる。溢れた涙で黄色が滲んだ。結衣は小さな穴を掘ると、潰された蝶をその中に埋め、土をかけた。
あの男は狂っている。元々、狂気を帯びた性格なのか、母親の尋常でない死を乗り越えきれずに精神に異常を来してしまったのか判らない。店の者からは、元々、性癖に変質的で異常な―例えば道端で見かけた犬猫に対して訳もなく蹴ったり石を投げたり、時には野良猫に毒をわざと食べさせ、のたうち回って死ぬのを見て歓んでいたという。そういう残忍性は幼いときから見られたという話を聞いたことはあった。
遊廓通いが顕著になったのは母お芙美が死んでからの出来事だとはいうが、元々、あの男の中には狂気じみた性格があることは疑いようもない。
―お前は既に私の手に囚われた蝶だ。愉しみにしているが良い。
先刻、囁かれた言葉が耳奥でこだまし、結衣は思わず両手で耳を覆い烈しく首を振った。とんでもない男に眼を付けられてしまった。引き込みとしては大失態だ。
無意識の中に男が触れた箇所を手のひらでこすっていた。まるで汚いものでも触れたかのように。
得体の知れない不安を抱えたまま、それでも日々は何事もなく過ぎていった。上女中となってからは当主や家族の暮らす奥向きでの仕事が多くなったとはいえ、元々、若旦那の作蔵は家にいることの方が珍しい。
大抵は吉原で流連(居続け)をしていたり、岡場所に入り浸っていたから、幸か不幸か結衣も作蔵と顔を合わせることはなかった。
暦は八月に変わった。ここのところ、江戸は雨一つない晴天が続いていて、その日も風がそよとも吹かぬ油照りの一日となった。結衣は内儀おこうの言いつけで町人(ちようにんまち)町の京屋まで遣いに出た。
町人町は名の通り、町人の町である。美濃屋とは同業の呉服問屋京屋を初め、名の知れた大店が軒を連ね、町全体が活気のある、いわば商人の町だ。
京屋の主人市兵衛は美濃屋信右衛門と同様、丁稚から出世して先代に見込まれて婿養子となった。因果なことに、市兵衛も先代の娘と結婚したものの、その最初の結婚は不幸に終わっている。女房を亡くした後、後妻を迎えたが、その女は飾り職人の娘で、市兵衛が妻に迎えると宣言するまでは存在すら知られていなかった娘だった。
信右衛門のように先妻が健在であった頃から関係を持っていたわけではなく、妻が亡くなってからの関係ではあるが、その娘と市兵衛がひそかに関係を続けていたことに変わりはない。市兵衛もまた周囲の反対を押し切って、その娘を後妻に入れたことなど、信右衛門と二人の境遇は似ていた。
だからということもないだろうが、この二人の傑物は歳も近く気も合うことから、かなり親しい付き合いをしている。美濃屋と京屋も共に江戸を代表する大店でありながら、良好な関係を保っているのは、ひとえに主人同士が盟友ともいって良い間柄ゆえであった。
その日、結衣がおこうに言いつけられたのは、わらび餅を京屋に届けてくるようにという用事であった。おこうの実家は浅草の小さな水茶屋である。気立ての良いおこうは、そこの看板娘であったといい、その頃から、おこうの作るわらび餅が美味いと遠来の客もわざわざ買いにくるほどの評判だった。
信右衛門との馴れ初めも元はといえば、このわらび餅であったという。最初、信右衛門はこのわらび餅を作ったのがおこう自身だとは知らず、
―このように美味しいわらび餅はどこで買ったのかね?