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霞み桜

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「売女でも足りない、美濃屋の身代欲しさなら、十七も―自分の父親ほどの男にも平気で脚を開くような淫売じゃないか。おっかさんは、そんな女のために可哀想に信じてたおとっつぁんに殺されちまったんだ!」
 溜息が聞こえ、次いで信右衛門の深刻な声音が続いた。
「そこまで言うのなら、致し方ない。真実を話そう。お芙美は、お前の母親はあの日、事故のあった川のほとりで贔屓の若い役者と逢い引きの約束をしていたんだよ。何でもまだ駆け出しだが、たいそうな美男だったそうだ。その役者に随分と店の金を持ちだして貢いでいることも私は知っていた。だが、それで、お芙美の気が済むならと見て見ぬふりをしていた。だが、若い役者の方は次第にお芙美に飽きてきて、ケリをつけたがっていたらしい。それで、その日も別れ話を持ち出され、お芙美が逆上した。別れる別れないと揉めている最中、お芙美が誤って川に落ちてしまった。おっかさんが異様に水を怖がっていたのは知っていただろう」
 作蔵からの返事はなかった。
「幼い頃に川に落ちて溺れかけてからというもの、お芙美はたとえ浅瀬でも怯えて入ることはできなくなった。それが災いしたんだ、川に落ちたお芙美は恐慌状態を来たし、本来なら溺れるはずのない足の立つ川で溺死した。亡骸が見つかった同日、その件(くだん)の役者が芝居小屋の者に付き添われて番所に出頭してきたそうだ。それで、お芙美の死んだ原因が判ったというわけさ」
「そんな、馬鹿な」
 作蔵の声が戦慄いた。
「お芙美の死因が明らかになるのを金を使ってもみ消したという世間の噂は真実だ。だって、お前、たとえ心はとっくに離れていたとしても、お芙美は十六年も連れ添った女房じゃないか。息子のような年の若い役者に入れあげた挙げ句、棄てられそうになって別れ話の果てに死んだなどと到底、世間さまに言える話ではなかった。それでは、あまりにお芙美が不憫だからな」
「だが、おとっつぁんは私が実の子ではないと思っていると―」
 信右衛門の声が皆まで言わさなかった。
「つまらない噂を信じるな。世間は何でも他人の家の揉め事は面白おかしく取り沙汰するものだ。だが、お前が誰の子かはこの私がいちばんよく知っている。お芙美は祝言を挙げたときは綺麗な身体だったし、お前を身籠もったのはそれからすぐだった。その後は知らないが、お前は間違いなく私の子だ。それは父親である私が保証しても良い」
「嘘だ嘘だ嘘だ! おっかさんが役者と別れ話で揉めて川に落ちただなんて、そんなことがあるはずがねえ」
「作蔵!」
 信右衛門の悲痛な声が上がる。到底、出てゆける雰囲気ではなく、結衣は身を強ばらせたまま立ち尽くしていた。そんな彼女の眼前で突如として襖が揺れた。怒りに任せて力一杯蹴り上げられた襖が烈しい音を立てて倒れてくる。
 結衣は小さな悲鳴を上げ、後ずさった。咄嗟の動きが幸いして、倒れてきた襖が結衣にぶつかることはなかった。
「何て乱暴なことをするんだ、お前は」
 信右衛門が絶望に染まった顔で作蔵を見つめている。結衣は居たたまれず、うつむいた。その寸前、作蔵と視線がぶつかった。
 ぎらついた視線が結衣を射竦めるように絡みついた。その嫌らしげな視線が検分するかのように、結衣の身体を舐める。あまりのおぞましさに、結衣は総毛立った。
「怪我はなかったかい?」
 流石に信右衛門は動ずることなく、結衣に身の安全を問うた。結衣は小さく頷き、頭を下げた。
「申し訳ございません。旦那さまのお部屋の掃除をしておりましたが、出ようにも出られず、ご無礼を致しました」
 信右衛門は鷹揚に頷いた。
「これだけ烈しい父子喧嘩をしていては、出ようにも出られないのは仕方ない。済まなかったね、できれば、このことは他の奉公人には口外しないで貰えるとありがたい」
 流石は江戸屈指と呼ばれる大店の主だ。見事な受け答えに、結衣はいっそう頭を垂れた。
「もちろん、承知しております」
「もう、ここは良いから、行きなさい」
「はい」
 結衣は作蔵にも一礼して、静かに下がった。背中にはまだ、あの粘りつくような作蔵の視線を感じていた。
 それにしても、世の中は面妖なものだと思わずにはいられない。信右衛門と作蔵は紛れもない血の繋がった親子でありながら、判り合えない。姿形も作蔵は信右衛門そっくりだ。何より二人の姿を見ずとも声だけを聞いた結衣には、この父と息子の声が紛れもなく父子であることを確信した。
 作蔵が信右衛門ほどの年になったら、恐らく声に深みが出て、こんな声になるであろうと思えるほど、二人の声は酷似していた。
 信右衛門と作蔵に比べ、結衣と喜助の間に血の繋がりはまったくない。それでも、父と自分は血の通った信右衛門父子よりよほど強い絆で結ばれている。そのことを結衣はありがたいと思った。
―おとっつぁんのようなお人の娘になれて、私は幸せだ。
 そう素直に思える自分が嬉しかった。作蔵がもう少し分別のある男であれば、信右衛門がどれほど息子を案じているか判るというものだろうに。何故、信右衛門ほどの男にあんな愚かな息子が生まれたのか。顔は父に似ていても、どうやら作蔵の性根は父親とは相反しているようだ。
 美濃屋の先妻の死については世間では確かにあれこれと取り沙汰されている。その大方は婿養子の信右衛門が妾のおこうを正妻に直したいがために、おこうと計ってお芙美を事故に見せかけて謀殺したというものだ。お芙美の死の真相を隠蔽するために南町奉行所の役人にも多額の賄賂を送ったとも。
 しかし、噂の大半は信右衛門自身の今し方の証言で誤りであることが判明した。あのときの信右衛門の言葉には微塵の偽りもないと、傍で聞いていた結衣にも判った。むしろ顔を見ずに声色だけを聞いていたからこそ、そこにこもった真実を知ったともいえる。
 信右衛門が妻の死因を公表しないために金を使ったのは確かではあったけれど、それは妻の不名誉な死を隠し、あくまでも妻の体面を守るためであった。
 噂ほど、当てにならないものはない。結衣はこの時、つくづくと思い知らされたのだった。
  
 その日も結衣は庭にいた。上女中になってからというもの、女中頭のお登勢からも庭の掃き掃除はしなくて良いと言い渡された。にも拘わらず、暇があれば、結衣は庭掃除をしている。人気がないときは最奥部まで歩いて、蔵の建つ位置、目印になりそうな樹木を記憶に刻み込み、深夜、紙に書き付ける。そんなことを繰り返している。
 奉公に上がってしばらくは他の女中と相部屋だったけれど、今は狭いながらも一人の部屋を与えられている。そのため、夜更けまで書き物に夢中になっていたとしても、見咎められる心配はない。美濃屋では下女中は大部屋、上女中になると一人用の部屋を与えられると決まっているらしい。
 あまりに頻繁に一味の者と接触しても、怪しまれる危険性がある。そのため、繋ぎを取るのは半月に一度と決めてあった。繋ぎは半月に一度のその日、必ず結衣の前に現れる。ただし、その時、繋ぎがどのようないでたちをしているかは判らない。
作品名:霞み桜 作家名:東 めぐみ