霞み桜
と、おこうに声をかけた。それが二人の始まりであったのだと、三十近いおこうが娘のように頬を染めて話している様子は微笑ましかった。
美濃屋に奉公してひと月、結衣は信右衛門・おこう夫妻に次第に親愛の情に近いものを抱き始めていた。確かに世間のいうとおり、二人の関係は最初は許されぬものであったかもしれない。しかし、先妻のお芙美も亡くなった今、年は違えども惚れに惚れ抜いて一緒になり、互いに労り合う夫婦の姿は結衣には眩しく見えた。
そのおこう自慢のわらび餅は既に結衣も食べた。おこうは時々、自ら厨房に立ち、夕餉だけでなく、こうした菓子をも作った。昨日もたくさんのわらび餅を作り、大勢の奉公人に配った。上は大番頭の茂吉から下はまだ幼い丁稚にまで大盤振る舞いし、皆、暑い時分のこととて、冷たく冷やしたおこう手製のわらび餅に笑顔で舌鼓を打ったのだった。
おこうは、あまたいる奉公人一人一人の顔と名前もすべて諳んじ、けして間違えることはない。どんな用事を言いつけるときでも、ちゃんと名前を呼び
―済まないけど、よろしく頼むよ。
と頭を下げ、用事の済んだ後はちゃんと報告させて
―ありがとうよ、助かった。
と、礼を言う。
世間には水茶屋の娘上がりが玉の輿に乗ったと陰口を言う者もいるけれど、美濃屋の奉公人は皆、この内儀を敬い心から従っているのが判る。結衣もまた、おこうの人柄を知るにつけ、強く惹きつけられていった。
おこうの手作りのわらび餅は竹皮に包まれ、結衣の手によって無事に京屋に届けられた。京屋ではわざわざ市兵衛の内儀お彩(さい)が出てきて、使用人にすぎない結衣に丁重に礼を言った。大店の内儀でありながら、少しも偉ぶったところがない。お彩は気質的にはおこうと相通ずるところがあるように見えたけれど、器量はおこうより数段良かった。
市兵衛がどれだけ親戚連中に反対されても、けして意思を曲げずにお彩を後妻に迎えたそうだが、それも納得できる。はんなりと微笑むお彩は桜の花が綻んだような可憐な美貌であった。歳は既に三十路を過ぎているであろうのに、年齢を感じさせない若々しい美貌は今でも?氷の京屋?と畏怖されるやり手の男を骨抜きにしているほどだと専らの噂である。
―この暑いのに、ご苦労だったね。
お彩は少し上がって休んでいくように言ったが、結衣はとんでもないと辞退した。所詮、自分は美濃屋の奉公人にすぎない身である。幾ら京屋の内儀が勧めてくれたからといって、図々しく上がり込めるなど考えられなかった。
京屋を辞して帰る道すがら、結衣は久しぶりに江戸の町の賑わいを堪能した。目抜き通りには大店が目立つが、そこを抜ければ、小体な店もある。結衣が買えるのは大店の内儀やお嬢さまが贔屓にするような店ではなく、そういった気軽に入れる店であった。
目抜き通りが途切れた辺りで、結衣はふと違和感を憶えた。通りの向こうから薦を被った小柄な老人が歩いてくる。今にも倒れるのではないかと思うほど覚束無い歩き方は寄る辺のない乞食にしか見えない。
が、その乞食が先刻から結衣の方をちらちらと窺っているように見えたのだ。そこで、結衣は愕然とした。
いけない、大切なことを忘れていたと自らの迂闊さに歯がみする。今日は半月に一度、一味の繋ぎに美濃屋で集めた情報を渡す日ではないか! こんな大切な日を忘れてしまったのでは引き込み失格である。
既に一度めの接触は終わっている。今回はこれが二度目だ。美濃屋を出るときまでは確かに憶えていたし、今も情報はちゃんと懐深く収めている。結衣は大切な情報を記した紙があるはずの胸の辺りをそっと手のひらで押さえた。
今回は錠前から取った鍵型も含まれている。作蔵と嫌な出会い方をしたあの三日後、ひそかにまた蔵の方にゆき、鍵の型を取ったのだ。今回渡すのは鍵型と美濃屋の全景図、ひと月の間に頭にたたき込んでは書き込んでいった店舗から居住区、庭に至るまでの見取り図だ。
乞食らしき老人は次第に近づいてくる。そこで、老人の小さな身体が傾ぎ、無様に引っ繰り返る。結衣は慌てて駆け寄った。たとえ繋ぎではなくても、弱り切った哀れな老人をこのまま見過ごしにはできない。
と、転んだ老人が結衣の差し出した手に縋りながら小声で囁いた。
「谷があれば」
「川」
結衣も囁き返す。続いて
「山があれば」
問い返すと、老人が?海?と応えた。
彼の眼と結衣の眼が束の間合う。弱々しいはずの彼の眼は炯々と輝きを放っていた。
?谷があれば川、山があれば海?、これは般若の一味で繋ぎと連絡を取る際の合い言葉だ。役人が放つ密偵の眼を眩ますため、合い言葉は幾通りかある。
「何とかやってるようじゃねえか」
嗄れた声は徳市のものだ。結衣は懐かしさに思わず肩の力が抜けた。今度は徳市はわざと周囲に聞こえるような大声で言う。
「お情け深い娘さん、どうか哀れな乞食にお恵みを下され」
結衣は懐から銭入れを取り出し、折りたたんだ紙を握りしめた。
「おじさん、これをおとっつぁんに」
小声で言い、すかさずこれまた大きな声で告げる。
「お気の毒に、どうかこれで冷たい麦湯でも買って飲んで下さいまし」
「確かに受け取った。くれぐれも用心しろよ」
徳市は囁き、
「ありがとうごぜえます」
声高に一礼して、素早く結衣から離れた。結衣もまた軽く会釈して徳市の方を見向きもせず、二人は逆方向に歩き出す。傍目には気の毒な乞食と優しい娘の束の間の邂逅にしか見えないはずだ。
しばらく歩いて振り返った時、小柄な乞食の姿は既に人混みに飲まれて消えていた。
それから更に歩き、結衣はとある店の前で脚を止めた。小さな小間物屋の前には道行く客の眼に止まりやすいように安価な簪が並んでいる。その中の一つに、結衣は引き寄せられるように近づいた。
蝶の形をした飾りが一つ付いただけのものだけれど、薄紅色の蝶には梅の花模様が描かれ、華やかな雰囲気を醸し出している。思わず手に取ると、すかさず奥から店主らしい男が出てきた。三十年配のいかにも如才なさそうな商人らしい男である。
「その簪は綺麗でしょう? 梅の花ってえいうんで、ちと季節外れなものだから、かなりお安くしてあるんですけど、良かったら当ててみますか?」
と、手鏡まで差し出すので、結衣は慌てた。
「いえ、素敵な簪ですけど、生憎と持ち合わせがないので」
急いでその場を離れようとした時、背後で男の声がした。
「店主、その簪を一つ貰おう」
あからさまに落胆を見せた店主の顔がパッと輝き、現金なほど愛想良くなった。
「これは美濃屋の若旦那。いつも毎度ご贔屓にありがとうございます」
その声に、結衣は振り向く。作蔵が懐から錦の銭入れを出して金を払っているところだ。
「困ります、こんなことをして頂いては」
狼狽える結衣に、作蔵は肩を竦めた。
「別にこんな安物の簪一つ買ってやったからといって、どういうことはねえよ」
結衣はムキになって言い募る。
「高い安いの問題ではありません。私は若旦那さまに簪を買って頂く理由がないと申し上げているのです」
作蔵が眉をつりあげた。
「男が惚れた女に簪を買うのは、おかしいか?」
「え、それはおかしくはありませんけど。―って、ほ、惚れたって」