霞み桜
だが、童女はいっかな泣き止まず、結衣も弱り果てた。と、足許に露草が咲いているのが眼に入った。
「これを見て、綺麗なお花でしょ」
その言葉に漸く童女が泣き止んだ。結衣の手許をじいっと見つめ、こくりと頷く。
「綺麗、何ていうお花?」
「露草というのよ」
「つゆくさ?」
あどけない声で繰り返す女の子に、結衣は視線を合わせて言った。
「これを上げるから、もう泣かないで、ね?」
「うん!」
女の子は小さな手にこれまた愛らしい蒼色の花を持ち、にっこりと笑った。まだ涙の粒を宿したその瞳が愛くるしい。結衣もつられて微笑んだその時、向こうから悲鳴のような声と脚音が聞こえた。
「おゆみ!」
顔を上げると、豪奢な紫色の着物に黒繻子の帯を締めた三十ほどの女が駆けてくる。信右衛門の女房おこうであろう。結衣は咄嗟におゆみから距離を置き、深く頭を下げた。
「急に姿が見えなくなったと思って、あちこち探し回っていたというに」
言い置き、つと結衣の方を見やる。
「お前が見つけてくれたのかえ?」
「はい、お内儀(かみ)さん」
結衣は面をできるだけ伏せて応える。引き込みはできるだけ主人夫婦の印象に残らない方が良い―とは、徳市が教えてくれたことだ。
「名は何と?」
「結衣と申します」
「良い名だねえ。お前、そんなに頭を下げていては顔が見えないよ。結衣はおゆみの生命の恩人なのだから、ちゃんと顔を見せておくれ」
「生命の恩人だなどと、そこまでたいしたことをしたわけではありません」
応えるのに、おこうは涼やかな声を立てて笑った。
「若いのに謙遜するところも好ましい。そう言わずに、顔を見せておくれでないか」
そこまで言われて顔を上げないのもかえって不自然だろう。結衣が顔を上げると、おこうが微笑んだ。
「あれま、何と可愛らしい娘だこと。気立ても良さそうだし、孝太郎が年頃であれば、お前のような娘を嫁に欲しいほどよ」
孝太郎というのは昨年末に生まれたばかりのまだ赤児の次男のことである。
「それにしても、そこまで器量良しの娘であれば、記憶に残っていそうなものだけど」
おこうの言葉に、結衣は控えめに告げた。
「つい十日ほど前に奉公に上がりました新参者でございます」
おこうが大きく頷いた。
「なるほど、それで見かけたことがなかったわけね。そのなりでは下女中として入ったのかえ?」
結衣は改めて我が身の粗末な身なりを思い出した。地味な着物も帯も質素なもので、すべて家から持参したものばかりだ。頬を赤らめた結衣に、おこうが優しく言った。
「どうも悪いことを言っちまったようで、済まないねえ、だけど、あたしも元はたいした家の出じゃないから、お前と似たようなものだよ。結衣のような機転の利く若い女中が一人奥にも欲しいと思っていたところだったから、丁度良い。今日から早速、上女中として奥の方で私やおゆみの世話をしておくれ」
おこうはけして美人という質ではなかった。子どもを生んだばかりということもあるだろうが、ふっくらとしており器量も平凡だ。しかし、その細い瞳には優しさが溢れており、結衣が男でも、こういう女となら寛げるだろうという気がする。信右衛門がおこうに惹かれたのも判るような気はした。
そういえば、美濃屋に来てから内儀の悪口を聞いたことがない。口うるさいと若い女中たちからは怖れられている謹厳な女中頭お登勢でさえ、おこうの指図には文句一つ唱えず従順に従っている。
おこうが後妻に直るはるか前から美濃屋に奉公している大番頭なども、おこうには一目置いているようだ。大方の奉公人は老いも若きもこの若い内儀に心服しているように見えた。むしろ、不幸な亡くなり方をした先妻のお芙美を悪く言う奉公人の方が多かった。
「ありがたいお言葉ではございますが、私のような粗忽者に奥向きでのご用が務まりますでしょうか?」
おこうは微笑んだ。
「お前ほどの賢い娘のこと、心配しなくてもすぐに慣れるでしょう。なに、別にたいした用事など、ありはしないよ」
上女中になれば、主人一家が暮らす居住区にも怪しまれずに出入るできるようになる。美濃屋の全体図を頭にたたき込んでおくためには、願ってもない好機といえた。
こうして、結衣はひょんなことから、上女中として内儀おこうの側近く仕えることになった。
その翌日、結衣はおこうの言いつけで主人の信右衛門の居室を掃除していた。床の間には墨絵で鯉の滝登りを描いた雄壮な掛け軸が掛けられ、竹籠にふた色の紫陽花と山梔子、桔梗が活けられている。
大方、昨日見た庭の花をおこうが摘んだに相違なかった。まずは部屋内を掃き、床の間、違い棚を丁寧に拭き清めて掃除は終わりとなった。主人の居室にあまり長く居ては怪しまれる。それでも、結衣は周囲を眺め回し、その部屋の様子や家具の配置などを頭にたたき込んだ。
部屋を出るために襖を開けようと手を掛ける寸前、向こうから怒声が響き渡った。
「良い加減にしないかッ。毎日毎日、良い年をした若い者がろくに働きもせず廓に入り浸って、恥ずかしいと思わないのか!?」
かなり立腹しているらしい声は信右衛門のものだろう。対して、よく似ているけれど、少し若い声で応える。
「それこそ、おとっつぁんの思う壺でしょう。私が身を持ち崩せば崩すほど、孝太郎に身代を譲りやすくなりますからね」
その応えで、この声の主が想像どおり、信右衛門の長男作蔵だと判る。
「何だと?」
信右衛門の声が更に凄みを増した。
その声に、揶揄するような声が応える。
「おや、違うのですか? うちの奉公人だけじゃない、同業のお店連中でも寄ると触ると、その噂で持ちきりだそうですよ。美濃屋の旦那は憎い先妻腹の息子じゃなくて、惚れに惚れ抜いた後妻の生んだ赤児に身代を譲りたがってるって」
「お前、本気でそんな埒もない噂を信じてるのか?」
作蔵が鼻を鳴らした。
「当たり前じゃアないですか。おとっつぁん、あんたは鬼のような人だ。惚れた女を家に引き入れるために、何の罪もないおっかさんを殺して何食わぬ顔をして、のうのうと生きてる。私がそれを知らないとでも、思っているんですか!」
「作蔵ッ、口にして良いことと悪いことがあると、その年になってもまだ判らないのかっ」
「私は一向に構いませんがね。口にされて困るのは、おっかさんを殺したおとっつぁんだけでしょう」
「馬鹿っ」
派手な音がした。作蔵が信右衛門に打たれたのだと知れる。短い沈黙の果てに、信右衛門の苦渋に満ちた声が響いた。
「お前にだけは話すまいと思っていたが―、お芙美が何故あんな亡くなり方をしたか、お前は真実を知っているわけではなかろう」
「だから、それは、あんたとあの女が結託して、おっかさんを殺したんだ!」
「何度言ってる、おこうはもう美濃屋のれきとした内儀になったんだ。あの女呼ばわりせずに、おっかさんと呼びなさい」
「馬鹿な、おっかさんを殺した売女を母親だなんて呼べるもものか」
「今、何と言った? お前、おこうを売女と呼んだのかっ」