霞み桜
「そんなことは間違っても口にするんじゃねえ。お前の人生はお前だけのものだ。結衣、お前はこんなろくでなしの父親のためじゃなくて、自分の幸せのためにだけ生きてくれ。それが父ちゃんの願いだ」
もう夜も遅いというのに、まだ商いをするつもりか、遠くからかすかに按摩笛が響いてくる。江戸の町はひっそりとした夜陰の底で眠りにつこうとしていた。
出逢いは別離の始まり
結衣が中町でもひときわ目立つ大店美濃屋に住み込みの女中として入ったのは、その翌月の初めだった。
「般若の喜助」は闇の世界では名の知られた大物であり、あらゆる方面につてを持っている。その気になれば、大名屋敷にでさえ密偵を送り込むことができるのだ。ゆえに、たとえ大店とはいえ、一商家に引き込みを一人入れることなど造作もないことだ。
とはいえ、奉行所の手前、以前よりは事が進めにくくなったのは確かではあった。凄腕と知られ、多くの名だたる盗っ人を獄門台に送った北町奉行北山源五はいまだ病臥中であり、一時に比べれば探索の眼は随分と緩くなったものの、それでも、源五の配下が執拗に江戸の町を嗅ぎ回っている。
そんな中、結衣は江戸でも五指に入るという大店に押し入るための先鋒としてまず美濃屋に送り込まれたのである。
美濃屋は流石に当代の信右衛門で八代目を数えるまで続いた格式を誇る大店であった。構えも立派だが、内証は更に豊かで、田舎大名よりはよほど豪勢な暮らしをしているという噂は真実であったようだ。
主人の信右衛門は四十半ばほど、内儀のおこうは三十手前と信右衛門の年齢にしてはかなり若いが、その理由はすぐに判った。おこうは後添いなのだ。しかも、その前は水茶屋で働いていたところ、信右衛門と知り合ったらしい。おこうに夢中になった信右衛門は直におこうに水茶屋勤めを辞めさせ、一軒を与えて囲った。つまり手活けの花としたのだ。
当時、信右衛門の前妻であるお芙美はまだ健在で、二人はいわば道ならぬ恋だった。それがお芙美が不慮の事故で頓死した後、まだ一年の喪明けも済ませぬ中に信右衛門は親戚一同の反対を押し切っておこうを後添いに直し美濃屋に入れた。
前妻のお芙美はどうやら、あまり良い内儀ではなかったらしい。歌舞伎役者に現を抜かし、芝居見物やそれに着てゆく衣装に湯水のごとく金を使っていたという。そんな内儀に信右衛門が頭が上がらなかったのは、お芙美が先代の一人娘であり、信右衛門が奉公人上がりの婿養子であったからだとこれは結衣が後に朋輩の女中から仕入れた話だ。
そういうわけで、当時、美濃屋夫妻の仲はとうに冷め切っていた。しかも、お芙美の死因というのがどうにも不自然だ。というのも、お芙美は病死ではない。芝居帰りの道中、事故は起こった。人当たりして気分が悪くなったお芙美が途中で駕籠を降りて一人で歩いて帰ると言い出したところまでは、駕籠かき人足の証言で判っている。
が、その後のなりゆきがどうも妙で、駕籠を降りたお芙美が近くの川に足を滑らせ転落して亡くなった。亡骸が発見されたのは翌朝だった。しかし、酒を飲んでいたわけでもなく、何の発作を起こしたわけでもない女が何故、川に足を滑らせたりしたのか。誰かに突き飛ばされでもしない限り、あり得ないことだ。
このことを当然ながら、奉行所は重く見て詮議したというが、美濃屋信右衛門はどうも大枚を与力に渡し、事をうやむやにしてしまったらしい。この月の担当は公正な裁きをするとされる北町ではなく、南町の方であったことも美濃屋には有利だったに相違ない。
信右衛門には亡くなったお芙美との間に一人息子作蔵がいる。この跡取りは既に二十二歳になっていて、後妻のおこうとの間には一人娘のおゆみがいるが、信右衛門はこの五歳になる娘を溺愛していた。このままではれきとした跡取りがいても、おゆみに美濃屋の暖簾を継がせるのではないかという剣呑な噂も流れる中、去年の暮れ、おこうが待望の男児をあげた。
信右衛門はこの次男を殊更可愛がり、作蔵に対しては
―あんな役者狂いの身持ちの悪い女が生んだ倅なぞ、本当に自分の種かどうか判らない。
と、まで広言しているとか。
この作蔵、一昨年、遠縁のお店の娘と祝言を挙げたものの、吉原通いなどあまりに放蕩が過ぎて、女房は新婚わずかふた月で愛想を尽かして実家に帰ってしまい、ほどなく離縁となった。
商いに精を出すどころか、日がな岡場所や吉原に入り浸り、このままでは信右衛門が言葉通り作蔵を息子と認めず勘当するのではないかと古参の奉公人たちは心を痛めている。
結衣も奉公初日にそれとなく若旦那を紹介されたものの、遠目に見た作蔵は確かにけして良い印象を与える男ではなかった。見映えはそう悪くはない。むしろ、男前で通るだろう。眼許もきりりとして、これで眼(まなこ)に険がなく荒んだ様子がなければ、女たちも放ってはおかないだろう。それでなくとも、作蔵には美濃屋の跡取りという世間的立場がある。
自棄のような暮らしぶりがそのまま表に出て、近づきたくもないような陰惨な雰囲気を放っている。
もっとも、下っ端の女中として入った結衣は直接当主やその家族と拘わる上女中とは違うから、作蔵のことはさほど気にしなくても良い。結衣の真の目的は美濃屋の内情、特に最奥にあるはずの蔵の位置を調べ一味に伝えることだ。更に重要なのは蔵の鍵の型を取ることだ。
これが実は引き込みの大切な任務の一つだった。この鍵型をひそかに繋ぎの者に渡し、もう一つ同じ鍵を作る。その鍵を作って押し込み当日、蔵を開ける。最も大切な役目はその当日、美濃屋の家内が寝静まった後を見計らい、表戸を開けること。実はこれが引き込みの最大の目的である。
これから当日までの限られた期間内で、これらの役割をそつなくこなさなければならないと思えば、緊張に身体が震えた。しかも、周囲の誰一人として自分が引き込みであることを悟られてはならない。嘉助が言ったように、ここで引き込みが失敗すれば、芋づる式に探索の手が伸び、一味がことごとく捕らえられる。
失敗は許されないのが引き込みの任務なのだ。
美濃屋に入って十日ばかりが過ぎた頃、結衣は庭を掃いていた。文月の今は落葉よりは雑草がどうしても目立ってしまう。結衣は落ち葉や小枝を掃きつつも、せっせと草を抜いた。
美濃屋の庭はたいそう広い。今は夏の花がその広い庭を美しく彩っている。蒼色とピンクの紫陽花、山梔子(くちなし)の花や桔梗も見えた。しばし花に見入ってから、結衣は再び手を動かし掃き掃除を始めた。
そのときだった、少し離れた後方で派手な物音が響いた。どうやら、誰かが転んだらしい。急ぎ振り向くと、五歳ほどの愛らしい女の子が転んで泣いていた。
眼にも鮮やかな紅色の小袖に鶴丸が織り出された豪奢な着物を着せられた童女は美濃屋信右衛門の愛娘に違いなかった。
泣いている小さな子をそのままにもできない。結衣は駆け寄り、童女を抱き起こした。
「大丈夫?」
小さな身体を眺めやるも、幸いにも怪我をしている様子はない。結衣は女の子の頭を撫で、できるだけ優しく言い聞かせるように言った。
「どこにも怪我はしてないからね」