霞み桜
結衣は即座に首を振る。
「それはないよ。嘉助兄さんは大好き」
小さな溜息の後、喜助が言う。
「嘉助はお前にとっては、いつまでも兄さんってことかい?」
長い沈黙があった。結衣は父にだけは本当の気持ちを告げたいと思った。
「―多分」
更に永遠とも思える沈黙が続いた。今度は大きな溜息と共に喜助の短い応(いら)えがあった。
「そうか」
ややあって、喜助が溜息混じりに続ける。
「だがなあ、結衣よう。おとっつぁんもこのザマだ。そろそろ歳だし、いつ何があるか判らねえ」
「それは、どういうこと?」
結衣がやや気色ばんだ声色で問う。
「お勤めの最中に、何かあるってこと?」
喜助が盗賊だと知るだけに、結衣はつい父の言葉の裏を勘ぐってしまう。喜助が笑った。
「別に深い意味はねえ。ただ、単に俺も歳だからってことさ」
「おとっつぁんはまだ五十じゃない」
「五十は立派な年寄りさ。あの信長公だって、本能寺は五十のときだったんだぞ」
喜助が酔うと必ず出るのが
―人生五十年、下天の中を比ぶれば、夢まぼろしのごとくなり。ひとたび生を受け滅せぬもののあるべきか。
戦国の覇者信長が逆臣明智光秀に討たれて本能寺で敢えない最期を遂げたときに焔の中で舞いながら謳ったというひとくだりである。
いつもなら笑って眺めているのに、今夜ばかりは違った。
「止めてよ、そんな縁起でもない。今は天下泰平で戦国乱世でもないのに。何が本能寺よ」
尖った声で止めるのに、喜助はどこか悟ったような顔で言う。
「結衣、俺たちが生きているのは乱世と同じ、考え様によっては、それより修羅場かもしれねえ。奉行所や役人はそれこそ盗っ人をお縄にしようと血眼になってるんだからな」
結衣は溜息をついた。
「そういえば、嘉助兄さんも昼間、似たようなことを言ってたわ」
―お勤めというのは生きるか死ぬか、武士でいえば合戦と同じだ。いわば奉行所と俺らの知恵比べなのさ。戦いと言ったからには、負ければ生命が無くなる。
嘉助の言葉をそっくりそのまま伝えると、喜助は笑いながら頷いた。
「あいつもなかなかいっぱしのことを言うようになったもんだな。これなら、安心して後を任せられる」
ひとしきり低い声で笑った後、喜助が真顔になった。
「なあ、結衣。嘉助は信用できる男だ。何より、あいつには実がある。世の中には口ばっかり上手いが、信用できない手合いはごまんといる中で、今時、ああいう男は珍しい。あいつなら、おとっつぁんに何かあった時、お前を守ってくれるだろう。夫婦(めおと)というのは何も初めから惚れて惚れられて一緒になるばかりとは限らねえ。祝言を挙げて長い年月を連れ添う中に自然と湧いてくる情というものもあるんだぜ」
その何気ない科白に、結衣は閃くものがあった。
「ねえ、おとっつぁん、一つ訊いても良い?」
「何だ?」
「おとっつぁんは昔、結婚したことがあるの?」
「何でえ何でえ、いきなりなことを訊くんだな」
どこか照れたような口調に、結衣は弾んだ声で言う。
「さっきの物言いが何か昔、奥さんがいたことがあるような感じだったから」
「そりゃア、俺だって男だからよ。女房の一人くらいはいたこともあるさ」
「そうなの?」
「結衣、済まねえが、煙管を取ってくんな」
結衣がたばこ盆を階下から取ってくると、喜助は腹ばいのまま上手そうに煙管をふかしだす。
「そうさな、お前も年頃だし、そういう話も良いだろう。俺は二十歳の頃は上方にいたんだよ。まだこんな稼業に入る前のことさ。そこで日傭取りをしていた頃に惚れた女と所帯を持った。続いたのは三年くれえかな」
喜助が遠い眼で訥々と語る。結衣は少しからかうように訊ねた。
「愛想を尽かされちまったの?」
「いや、死んだ」
え、と、結衣の笑みが固まった。
「ごめんなさい、私ったら、何ていうことを」
「いや、良いんだ」
喜助は首を振り、思案げな顔で続けた。
「所帯を持って二年目に身籠もってなあ。翌年に子どもが生まれたが、たいそうな難産で、子どももろとも女もおっ死んじまった。子どもは女の子だった。二十歳のときの子だから、生きてればもう三十近くなってる。俺もとっくに爺イになってただろう」
だから、と、彼は言葉を継いだ。
「十年余り後、お前を引き取ったときは、これも神仏の導きだと思ったさ。お前が女の子だったていうのも不思議な縁だと思ってなあ。結衣という名は実のところ、死んだ子につけるはずの名前だったんだ。こんなことを言えば、お前は気を悪くするかもしれねえが」
「ううん、そんなことないよ、おとっつぁん。私は今まで、おとっつぁんに育てて貰って、おとっつぁんの娘にして貰って幸せだったもの」
いや、と、喜助は首を振った。
「俺は結局、お前からふた親を奪った。せめてもの罪滅ぼしにとお前を引き取って娘として育てたが、逆にお前の存在に励まされたのは俺の方だった。お勤めの最中、もうこれで終わりだとお縄になりそうになったときも、お前の笑い顔が瞼に浮かんだら、いや、俺はこのまま死ぬわけにはいかねえ、お前を残して死ねねえと思えて、そうやって死地を幾たびもかいくぐってこられたんだ」
今、初めて耳にする父の心に、結衣は言葉を失った。
「おとっつぁん」
「結衣、俺は今まであまりにもたくさんの罪を重ねてきた。一度だけだが、人を殺ったこともある。まだ駆け出しの盗っ人で、大きな一味の下っ端だった時分さ。逃げ遅れて物陰に隠れた若い女中がいてなあ、俺はお頭に見つからねえように逃がそうとしたが、間の悪いことに兄貴分に見つかっちまった。俺は命じられたとはいえ、お頭の前でその娘っ子を殺した。まだ十六にもなってねえだろう、今のお前よりも幼い子どもをこの手でなあ」
喜助はポンと煙管を煙草盆に打ちつけた。
「さんざんっぱら阿漕なことを重ねてきた身だ。今更閻魔大王さまに言い訳を並べ立てようとは思っちゃいねえが、ただ一つ、気掛かりは後に残していくお前のことさ。お前が嘉助を嫌うてはいないというなら、この際、あいつと所帯を持って、この大仏やを継いでくれねえかい」
「―」
うつむく結衣に、喜助の手が伸ばされた。
「もっとも、こればかりは無理強いもできねえ。無理にくっつければ、お前だけじゃねえ、嘉助まで不幸になっちまう。だが、俺としてはお前たちが夫婦になってくれれば、いつ何があっても安心して逝ける。まあ、時間はあるから、たっぷりと考えてみろ」
結衣は差し出された嘉助の手を両手で押し包んだ。
「おとっつぁん、この手は確かにたくさんの罪を重ねてきたかもしれない。でも、私や嘉助兄さんを優しく抱いてくれたり撫でてくれた手でもあるのよ。それを忘れないで」
溢れた涙の雫が握りしめた喜助の手にポトリと落ちた。
「嬉しいことを言ってくれるな。お前が泣くから、俺まで柄にもなく泣けちまったじゃねえか」
言葉とは裏腹に、喜助の口調はどこまでも優しい。グスッと洟を啜る喜助に、結衣は言った。
「私はおとっつぁんのためだったら、何だってするんだから」