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霞み桜

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「失礼ね。私が単なる我が儘で引き込みになりたいだなんて言い出すと思ってるのね、兄さんは。私を見くびらないでちょうだい。これでも般若の喜助の娘よ」
 嘉助が苦笑した。
「いや、それは俺が言い過ぎた。でもよ、結衣。考えてもみな。お前は確かにお頭の娘には違えねえが、生まれてこの方十六年もの間、盗っ人稼業とは一切無縁で育ってきた。それがお頭の願いでもあったはずだ。つまり、お前は盗みに関してはまったくの素人ということだ、そんなお前がいきなり美濃屋を相手にするほどの大仕事に加わるなんざ、正気の沙汰とも思えねえ」
「つまり、私が引き込み役では役不足ということなのね?」
 嘉助が小さい息を吐き出した。
「ここまで来ては話をうやむやにしても仕方がない。まあ、有り体に言えば、そうともいえるな。結衣、良いか、よく聞け。お勤めというのは生きるか死ぬか、武士でいえば合戦と同じだ。いわば奉行所と俺らの知恵比べなのさ。戦いと言ったからには、負ければ生命が無くなる。特に引き込みの仕事は重要だ。ここで失敗して万が一にも美濃屋から役人に知らせがいけば、俺たち全員が獄門台送りだ。お前の行動一つに一味の存続どころか生命が掛かってることをお前は理解してるんだろうな?」
 結衣が笑った。
「当たり前よ、それくらいのことを私が判ってないとでもいうの? 兄さん、私は今まで、おとっつぁんがもどかしくてならなかったの。私は般若の喜助の娘だし、娘であるからには、お勤めにも参加させて欲しいと何度も頼んだわ。でも、その度に、おとっつぁんは駄目だの一点張り。だけど、とうとう、おとっつぁんが許してくれたの。大丈夫よ、大切な仲間をけして危険な目に遭わせたりはしない。私に任せて、兄さん」
 嘉助がうつむいた。膝の上で握りしめた両の拳が震えて白くなっている。
 しばらく沈黙が二人の間を漂った。
「俺はお前に危ねえことはさせたくない」
 嘉助が振り絞るように言った。しばらくしてガバと面を上げた嘉助の眼が揺れていた。
「俺はお前が般若の娘であろうが、そんなことはどうでも良い。俺は、俺は、お前が好きだ。惚れた娘が盗っ人稼業に脚を踏み入れるのを指をくわえて見てるなんて、できねえよ」
 結衣は茫然として嘉助を見つめた。
「兄さん―」
 嘉助がどこか投げやりに言った。
「気付いてなかったのか? 俺はずっとお前のことしか見てなかったさ。それも妹じゃない、女として見てた。お前は生憎と俺を兄としか見ちゃくれなかったようだがな」
 結衣は嘉助を複雑な想いで見た。
「その話は今はまだ―」
 心が決まらないと言おうとした矢先、嘉助がフッと笑った。どこか淋しげな笑いが結衣の胸をついた。
「良いんだ。俺はこのとおり、朴念仁で女を口説く文句一つ知らねえ。だが、お頭に言ったことだけは本当だぜ。お前がその気になるまで、頭が真っ白の爺さんになっても待つ。だから、これは祝言だとか夫婦(めおと)になるだとかは別にしての話だと考えてくれ。その上で、俺はお前が引き込みになるのは反対だ」
 嘉助が呻くように言った。
「お前を引き込みにするなんて、お頭は気が狂っちまったとしか思えねえ」
 ふいに声高な声が響き渡った。
「止めて」
 嘉助が茫然として結衣を見やる。
「おとっつぁんを悪く言わないで」
「結衣―」
 結衣はうつむいた。
「ごめんなさい、大きな声を出しちまって。でも、兄さん。私にとって、おとっつぁんは何より大切な人なの。ずっとずっと育ててくれた恩返しがしたいと思ってた。兄さんだって、それは同じでしょう? 私たち二人、本当の両親はいないけれど、おとっつぁんがいたからこそ、ここまで来られた。今、やっとその願いが叶うときが来たの。だから、お願い、一度だけ、私のその願いを叶えさせて」
「本当だな? 引き込みになると、お勤めに拘わるのはこれが最初で最後だと約束してくれるか?」
 結衣が頷いた。嘉助がホウと肩の力を抜く。
「判った。結衣がそこまで言うなら、今回に限り、俺も精一杯お前に協力するよ。これから色々と引き込みに必要な手練手管を教えてやる」
 結衣の瞳が嬉しげに輝いた。
「ありがと、兄さん」
 しかし、頷いた嘉助の顔色は依然として冴えなかった。
 風もないのに、庭の紫陽花がまたかすかに揺れた。江戸の町の上にひろがる空は今日もまた陰鬱に曇っている。
 
 その夜、町外れでひっそりと商いを営む仏具屋大仏やから、按摩が出ていった。杖をつきつつ、帰路を辿る按摩に結衣は背後から声をかけた。
「お気を付けなすって」
 四十ほどの按摩は見えない眼で振り返って頷き、ゆっくりと遠ざかった。按摩の後ろ姿が角を曲がるのを見届けてから、結衣は表の掛け行灯の火を落とし、暖簾を閉まった。
 戸締まりをして店から続く短い階段を上がった先には二部屋ある。一つは喜助、廊下を挟んで向かいが結衣の居室だ。結衣はその一つの障子を開けた。
「おとっつぁん、腰の具合はどう?」
 夜具に腹ばいになった喜助がゆっくりと身体を動かし、床の上に座った。
「いやはや、齢(よわい)五十に手が届く前に、腰痛(こしいた)とはなあ。年は取りたくないものだ」
 喜助が腰の痛みを訴え動けなくなったのは、今日の夕飯時のことだ。二人で夕飯を食べている最中、座り直そうとした際に腰を変な具合に捻ったらしい。急に激痛を訴えて、その場に這いつくばったままになった。
 既に通いの徳市や嘉助も帰った後で、結衣は苦労して喜助に肩を貸して二階まで連れていった有様だった。喜助が小柄で痩せているとはいえ、それでも娘の結衣よりは身体も大きいのは当たり前なのである。
 寝間まで運ぶのもひと苦労で、汗だくになって連れてゆき、床を延べて寝かせる一方で、急ぎ懇意の町医者を呼びにいったが、生憎と急患の往診に出て留守だった。そのため、急遽、按摩に来て貰い、鍼を打って貰ったのだ。
 その鍼治療が効いたようで、少し動いただけで痛みに呻いていた喜助は今はゆっくりとではあるが難なく身体を動かせるようになっている。
「ふふっ、もう歳なんだから、少しは自重してよね、おとっつぁん」
 笑いを含んだ声音で言うのに、喜助も笑い声を上げる。
「言ったな、口ばかり達者になりおって。そんなんじゃア、嘉助に嫌われちまうぞ」
 大きな声を出したのが響いたのか、喜助が?うっ?と呻いた。
「いけねえ、まだ痛むな」
「当たり前でしょ、幾ら腕の良い按摩でも、神業のように急に痛みが消えるなんてことはないわよ」
 喜助が苦笑いする。
「下手に身体を動かしたら痛むもんだから、しゃちほこばってたみたいだな。肩まで凝っちまったよ」
「じゃあ、もう一度横になって」
「何だ何だ? 肩でも揉んでくれるってえのか」
 喜助がもう一度腹ばいになるのを待ち、結衣はその側に座った。横から喜助の肩に手を乗せ、ゆっくりと揉みほぐしてゆく。
「ああ、気持ち良いな」
 いつしか喜助は恍惚(うつと)りと眼を閉じている。結衣は父の肩を揉みながら、それとはなしに言った。
「おとっつぁん、先ほどの話だけれど」
 短い沈黙の後、喜助が唐突に言った。
「嘉助のことか」
「うん」
 幼い時分に戻ったような甘えた口調で言う娘に、喜助は優しく言った。
「お前は嘉助を嫌いか?」
作品名:霞み桜 作家名:東 めぐみ