霞み桜
元々は生みの親がつけた別の名があったことは確かだけれど、その名を知りたいとも名乗りたいとも願ったことは一度もなかった。
今も昔も結衣の父はこの世にたった一人、喜助だけだ。紫陽花を見ながら、とりとめもない物想いに耽っていたときだった。
「ここにいたのか」
低い声にいざなわれるように、結衣は振り向いた。
「嘉助兄さん」
嘉助は徳市に続く一味での実力者だ。喜助一味には頭領はむろん喜助と決まっているが、副頭領というのは存在しない。決まってはいないが、暗黙の中に?副頭領?格だと手下たちが認めている者が二人いる。一人が喜助の若い時分からの盟友であり、懐刀である徳市、今一人が七つのときに喜助に拾われた嘉助である。
嘉助は行き倒れていた旅の巡礼女の側で泣いていたところ、徳市が見つけて連れ帰ってきた。どうやら、その行き倒れていた女は嘉助の母親だったようである。嘉助は喜助にとっては間違いなく息子同然でもあるのだが、何故か、喜助は嘉助を養子とはしなかった。どれだけ可愛がっても、結衣のように娘だとは名乗らせず、あくまでも手下の一人として扱った。
喜助のその意図は直に判った。嘉助は拾ってきたときから聡い子どもで、喜助を歓ばせた。喜助はこの将来見込みのある子どもを娘に婿として娶せ一味を継がせようと目論んでいたのだ。
結衣は十三になった年、嘉助ともども喜助に呼ばれて、この話を聞かされた。
―お前はどう思う?
話の終わり、喜助に訊かれ、結衣は正直に首を振った。
―私はまだ判らない。嘉助兄ちゃんのこと、ずっと兄ちゃんだと思ってたし。
裏腹に嘉助は男にしてはやや白い頬を紅潮させ、喜助を真っすぐに見上げて頷いた。
―俺は願ってもねえ話だと思ってます。
もし結衣と一味を自分に託して貰えるなら、自分にできるだけのことはしたいとも述べた。更に、
―結衣が俺のことをまだ兄としてしか見られねえというなら、俺は男として受け容れて貰えるようになるまで待ちます。
とも、告げた。
―二人ともまだ若い。この話はお前らがもうちっとこの話を具体的に考えられるようになった数年先まで置いておこう。
喜助はあっさりと言い、二度とその話を蒸し返すことはなく日は過ぎた。
嘉助は約束を律儀に守り続けている。二人の関係は嘉助が十九、結衣が十六になった今も兄と妹のような状態から何ら変わらない。
そう、結衣にとって嘉助は?頼りになって優しい兄ちゃ?だった。嘉助が七つで家で暮らすようになってから、ずっと見守り続けてくれた兄だった。その認識は三年前に嘉助が独り立ちした今も変わらない。
現在、嘉助は近くの裏店で一人住まいしている。それは結衣との間に祝言の話が出た時、嘉助の方から?俺なりにけじめをつけたい?と申し出たことだ。
「お頭は何を考えてるんだ?」
嘉助は結衣の側に来て座り、胡座をかいた。二人の間の距離は微妙に空いている。そう、三年前、喜助が祝言の話を持ち出して以来、嘉助は結衣に対して一定の距離を保って接するようになった。
結衣はそれが淋しくてならない。結衣には嘉助はいつまでも頼もしい大好きな兄だったのに、嘉助は祝言話からこっち、結衣の眼をまともに見ることさえなくなった。大好きな兄が急に遠い存在になったようで、もどかしい。
以前はこうやって並ぶときは、すぐ隣に座っていたのに。
喜助が表向き営んでいる仏具屋「大仏や」は小体な店だ。表店ではあるけれど、構えも店内も狭く、人が数人も入れば一杯になるほど。狭い店内に喜助の几帳面な性格を示すかのように整然と様々な仏具が並んでいる。
見かけどおり家の中も狭く、どちらかといえば京の町家のように縦長い作りになっていて、庭はここ一つ、坪庭と呼ばれるような狭い庭があるきりだ。それでも喜助はここに四季の様々な草木花を植え、丹精してきた。
「それは、どういう意味?」
結衣は嘉助に物問いたげなまなざしを向ける。昨夜、二年ぶりに喜助一味の手下が町外れの荒れ寺に集まったことは徳市から聞いて知っている。そこはいつも一味が集まる場所として使っている塒(ねぐら)だった。
結衣の視線を受けた刹那、真面目一方の嘉助の頬にかすかに血が上ったのに結衣は気付かない。嘉助は狼狽えたように眼を伏せ、それから小さく首を振った。
「今度のお勤めはお前が引き込みの役を務めると聞いた」
結衣は頷いた。
「ええ、そのとおりよ。それがどうしたの?」
嘉助の声がやや高くなる。
「だが、お前。お頭はこれまで結衣には裏の稼業のことには一切拘わらせねえと言いなすっていたのに」
嘉助は建前上は、大仏やの使用人、手代ということになっている。徳市は番頭だ。手下の中で大黒やの奉公人となっているのはこの二人だけで、後はそれぞれ表向きの生業(なりわい)を持って普段はその仕事に従事している。
喜助がいかに二人を信頼しているかが判るというものである。常々、喜助は結衣だけは堅気のまま生涯をまっとうさせたいと口癖のように言い続けてきた。嘉助にしてみれば、三年前、結衣と一味を託すと言われたのは即ち、結衣を女房とし「大仏や」の婿養子となることだと思い込んだのも無理はない。
むろん、その裏には「般若」の一味を率いる跡目となることも含まれていただろうが、それは女房となる結衣とは一切切り離して考えることだと―少なくともこれまでの喜助のふるまいからはそう判断すべきだった。
喜助は結衣を引き取ってからこれまで、一度たりとも「般若」と拘わらせたことはおろか、盗みの話も極力避けてきたのだ。一人の父親として愛娘には堅気の生涯をまっとうさせたい、その心根は至極真っ当に思えた。
いかに名を馳せようと、盗っ人は所詮盗っ人、ひとたびお縄になれば獄門は免れない。喜助が掌中の玉と愛でる結衣にそんな酷い道を歩ませるはずはなかった。
一味の誰もが―徳市でさえ―結衣は生涯、喜助の裏の稼業とは一切関わりなく過ごしてゆくものだと信じ込んでいた矢先の出来事だった。
結衣はゆるりと振り向いた。
「兄さんは私が美濃屋へ引き込みに入ることを言っているのね」
嘉助はかすかに頷いた。
「当たり前じゃないか。これまで一度も引き込みなんぞしたことのないお前がよりにもよって美濃屋ほどの大身代に入るだなんて、俺には無茶だとしか思えない」
結衣は嘉助を真正面から見た。
「兄さんは私が何もできない素人娘だと思っている?」
嘉助が眉根を寄せた。ほどほどに整った容姿の彼は物静かな質ではあるが、なかなからに若い娘にはモテる。
「当たり前だろう。結衣は事実、そのとおり、お頭のお勤めとは無縁に過ごしてきた。いや、俺はそれで良かったとむしろ思っているんだぜ、流石はお頭だ、先々のことまでちゃんと考えてなさると俺は安心していたんだがよ」
「私がおとっつぁんに頼んだのよ」
結衣の言葉に、嘉助が一瞬、息を呑んだ。
「昨夜、お頭もそんなことを言いなすっていたが、あれは真実だったのかい?」
「当たり前でしょ。おとっつぁんが嘘を言うはずがないわ」
嘉助は額に手をやり唸った。
「そういう問題ではないよ。しかし、何でお頭が結衣の我が儘をあっさり許したのかも皆目合点がゆかねえな」
そこで、結衣の声もまなざしも尖る。