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霞み桜

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「結衣の心根も汲んでやれ。哀れな、そして天晴れな心意気を持った娘ではないか。あの娘は自らの生命を賭けて大切なものたちを守ったのだぞ。即ち奉公先の美濃屋、更に育ての父である般若の喜助だ」
 源一郎が信じられないというように眼を見開いた。
「結衣は般若の喜助の娘だったというのですか?」
 源五が溜息をついた。
「そなたには黙っておったが、実は儂はひそかに結衣の身辺を探らせておったのよ」
「兄上」
 俄に気色ばんだ弟を源五は軽くいなした。
「まあ、人の話は最後まで聞け。探らせたのは実のところ、別邸で結衣と対面してから後のことなのだ。儂が仮病を使っておると聞いたときの結衣の狼狽え様にちと不審を感じた。幾らそなたが奉行の弟であると知ったとしても、儂の仮病一つであそこまで愕くとは妙だなと与力の新田に調べさせたのだ」
「それで、般若の喜助と結衣の繋がりが判ったというわけですか―」
 源一郎自身、結衣当人から幼い頃、母を亡くし、父に育てられたという話は聞いていた。その父親が小商人であることも知っていたが、詳しい話は結衣が話そうとしなかったため、聞かずじまいだった。
 仮にも夫婦約束を交わした仲で、面妖な話ではあったけれど、我が身は何も結衣の父親と所帯を持つわけではない。源一郎は敢えて自分に言い聞かせていた。
 今から考えれば、結衣が父について語りたがらなかったのにも相応の理由があったのだと合点がゆく。
「結衣の父親は町外れで小さな仏具屋を営む小商人だ。名も喜助という。近隣への聞き込みによれば、多少偏屈で人付き合いも良くはないが、真面目一辺倒の商人だ。父一人子一人、親子仲は極めて睦まじく、結衣はよく働く親孝行の娘だと誰もが褒めておったそうな」
「いかにも結衣らしい」
 源一郎が洟を啜った。
「結衣は喜助の実の娘ではない」
 源一郎が弾かれたように面を上げた。
「そうなのですか?」
「恐らくは捨て子を拾ったか、場合によっては自ら押し込みで入った商家の子どもを殺すに忍びず我が子として育てたのかもしれぬ。マ、その辺りは儂も詳細は何とも言えぬが」
 源五は吐息混じりに言った。
「実の娘ではないゆえ、結衣は余計に喜助に恩義を感じていたのであろう。さりながら、結衣は引き込み女になるには人間が真っ当すぎ優しすぎた。それが、あの娘のすべての不幸の始まりになってしまったとは、この世は神も仏もないものかの」
「結衣は美濃屋で奉公する中に、主人夫妻や朋輩に情を抱いてしまったんですね」
「だからこそ、生命を賭してまで美濃屋へのお勤めを止めようとしたのだ」
 兄の言葉に、源一郎はがっくりとうなだれた。その時、執務室の障子が開いた。廊下に与力の新田和馬が座している。
「お奉行」
 新田は源一郎の方を気遣わしげに見やり、物問いたげなまなざしを源五に向けた。
「お結衣という娘の災難については、既にご存じにございましょうや」
 源五がその視線を発止と受け止め、頷く。
「たった今、源一郎より一部始終を聞いた。何とも惨い話ではないか」
 新田は苦い薬を無理に飲まされたような表情になった。
「お結衣に狼藉を働いた者が判明しました。下っ引きが俣八の言いつけで奉行所まで直々に知らせに参りました」
「うむ。子細を話してくれ」
 源五が差し招き、新田は一礼し執務室に入ってきた。
「お結衣を手籠めにしたのは誰なのですか!」
 源一郎が烈しい剣幕で言うのに、新田が源一郎と源五を交互に見て応えた。
「美濃屋信右衛門の倅作蔵にごさる」
「畜生っ」
 刀を掴んで立ち上がった源一郎に向かいの新田の厳しい声が飛んだ。
「源一郎ッ、落ち着け。今、そなたが飛び出していって、どうなるというのだ」
 源五もすかさず頷いた。
「新田の申すとおりだぞ、源一郎。作蔵の犯した罪は確かに憎むべきものだが、罪は人が裁くものではない、法が裁くものだ。奉行所の役人がそれをゆめ忘れてはならぬ。第一、血気に逸って作蔵を斬ったとて、結衣が歓ぶと思うか? 誰より他人の幸せを願う優しい娘だからこそ、あの者は敢えなく若い生命を散らしたのだ」
 源一郎が力尽きたように座るのを横眼で見、新田が源五を見た。
「般若の一味はどうしますか? 二十六日の夜、何もなかったふりをして捕らえることもできますぞ。むしろ、この際、般若一味を一網打尽にできるまたとない好機ではありますまいか」
 源五が源一郎に視線を向けた。
「さて、どうする、源一郎」
 源一郎はうつむいた。
「俺は」
 皆まで言えず、唇を噛んだ。源五が源一郎の想いを見透かすかのように代弁した。
「確かに新田の申すのは理ではあるが、新田よ、自らの生命と引き替えてまで美濃屋と父親を守ろうとした結衣の孝心に免じて、この度は我らが引こうではないか」
 源五は結衣の悲愴な覚悟を讃え、この場限りは般若の喜助を見逃そうと言っているのだ。新田は源五の意を正しく理解した。
「はっ」
 恭しく頭を下げ、何ももう言おうとしない。
「それでは」
 と、源五を見た新田に、名奉行は頷いた。
「結衣の父親喜助に娘の死を知らせり、亡骸を引き取りにくるように言ってやれ」
「畏まりました」
 新田は頷き、一礼して執務室を出ていった。
「兄上、ありがとうございます」
 自分がどうしても口にできなかった願いを兄が汲んでくれた。源一郎の礼に対して、源五はこんなことを言った。
「源一郎、儂はそなたのために喜助を見逃したわけではない。父親想いの孝心厚い娘の心に報いるために喜助を見逃したのだ。先刻、そなたに罪は法で裁くものと申したが、法だけでは裁ききれぬ罪もこの世にはある。それを判ずるのが奉行の務めの難しきところよ」
 法では裁ききれぬ罪もこの世にはある。兄のそのひと言は若い同心源一郎の心深くに沈んだ。

 同日昼過ぎ、大仏や喜助が番所に娘の亡骸を引き取りにきた。知らせを受けた喜助は飛んでくると、番所の中に安置していた娘の亡骸に取りついて声を殺して忍び泣いた。
 年の頃は五十手前と聞いているが、中肉中背、顔立ちも平凡で、雑踏に紛れてしまえばすぐに判らなくなるような特徴のない男だった。いかにも真面目で一徹な小商人という風体は、近所で聞いた評判どおりの男のように見える。
 ひっそりと涙を流す喜助は近所から借りた大八車を引いてきていた。番所にはまだ二十歳を幾つか過ぎたばかりの若い同心と鋭い眼の老いた岡っ引きが詰めていて、まず、岡っ引きから一通りの経緯と娘の死因が語られた。
 むろん、娘が自らの身体を傷つけてまで血文字で書いた遺書とその内容も伝えられた。
 喜助はただ黙ってうなだれ、時々涙を拭いながら話を聞いた。その後は娘に取り縋って泣く喜助に何を言うでもなく、同心と岡っ引きは静かに見守っていた。
 喜助が娘を大八車に乗せようとするときになり、若い同心が制し、自ら娘の骸を抱いて大八車に乗せた。
「ほんにご迷惑をおかけしました。色々とありがとうございました」
 喜助が大八車を引いて去ろうとするその間際、岡っ引きが声をかけた。
「待ちなせえ」
 その一瞬、喜助の細い眼が炯々と光ったのをその場にいた岡っ引きはもちろん見たけれど、何も見なかったような顔で顎をしゃくった。
作品名:霞み桜 作家名:東 めぐみ