霞み桜
「へい、さようでやす」
俣八が孫を気遣う祖父のような口調で頷いた。源一郎はすっくと立ち上がった。
「結衣が自らの生命と引き替えにしてまで守り抜きたかったものとは何だ?」
今となっては結衣を愛した男として、その悲痛な祈りにも似た想いが叶うようにしてやること、それが我が身にできる唯一の償いだと思った。
そう、まさしく、それは償いであった。
―俺がもう少し気を付けてやっていれば、結衣はこんな風に生命を落とすことはなかったものを。
取り返しのつかないことをした。苦い悔恨が源一郎をこれでもかというほど容赦なく打ちのめしていた。
結衣に最後に逢ったのは五日前、兄北山源五の別邸で兄夫婦に結衣を引きあわせたその日だった。あの日、別邸を出た結衣を美濃屋まで送り届けようとして、源一郎は結衣と和泉橋で別れたのだ。それは結衣自身がここからは一人で帰ると言ったからだ。
いつもは素直な結衣が何故か、あのときだけは頑なだった。思えば、あのときにはもう結衣の様子は妙に思えるところがあった。正確には別邸を出た直後、いやと、彼は記憶を手繰り寄せる。
辞去する間際、確か兄と結衣が短いやりとりを交わした。あの時、兄は何と言ったか。
―この先は知れぬが、北山家は現在ご公儀より三千石の扶持米を賜る身。もしや弟もこの先、町奉行どころか幕府の要職を担う身となるやもしれん。そなたはそんな源一郎を妻として生涯支え、連れ添うだけの覚悟はあるか?
兄はそんなことを言った。それに対して結衣は何と応えたか? そうだ、かなり長い間を置いて消え入るような声で?はい?と応えた。あの折、源一郎は結衣が?いいえ?と応えるのではないかと気が気ではなかったのだ。
もしや、結衣は本当に心変わりしたのだろうか? 三千石の旗本の妻なぞではなく気楽な町人暮らしがやはり性に合っていると?
源一郎は烈しい葛藤の末、烈しく首を振った。いや、それは断じてあり得ない。結衣は源一郎の立場を知ったからとて、容易く気持ちや決意を返るような女ではない。そんな風に考えては結衣があまりに不憫だ。
源一郎は再び跪き、結衣の手を取った。刃物か簪で傷つけた跡が確かに左腕に残っている。彼は懐から清潔な手ぬぐいを出して、まだ血糊のついた生々しい傷痕に巻いてやった。
改めて両手に記された血文字を読んだ。結衣が死力を振り絞って決死の想いで最後に残した手紙、いわば遺書でもあった。そうまでして伝えたかったのは何なのだろう。
源一郎は立ち上がり、俣八を見た。
「親分、はんにゃのきすけというのは間違いなく、あの?般若?一味の頭のことだろうな?」
「へえ、あっしもそう思いやす」
俣八が頷くと、源一郎は人差し指を顎に当てた。
「般若一味は急ぎ働きや無益な殺生はせぬ掟ではなかったか」
「まあ、そんなところでさ。もっとも、相手は盗賊稼業ですから、押し込みの最中に面子を見られちまったら、やむなく殺すということはたまにあるようでしたがね」
源一郎は鋭い眼で俣八を見た。凶状持ちが畏怖する鬼の親分が?怖ェ?と身が竦む冷徹なまなざしだ。
「この文面からすると、間違いなく般若の喜助一味が今月二十六日の夜、呉服太物問屋美濃屋に押し込むということだな?」
確認するように言われ、俣八は?へえ?と頷いた。
「美濃屋の屋号を持つ呉服問屋は幾つくらい江戸にある?」
「さあ、流石に咄嗟にはあっしも判りやせんが、呉服太物問屋と判っていれば数は知れているんじゃありやせんかね」
「旦那」と、俣八が遠慮がちに言った。いつもの歯に衣着せぬ物言いをする岡っ引きには珍しいことである。
俣八を見た源一郎に、岡っ引きは言った。
「美濃屋というのは亡くなったお結衣さんが奉公していたお店の屋号でもあるんじゃないですかい。お結衣さんが般若の一味と拘わりがあると思いたくねえ旦那のお気持ちはお察ししやすが、この際、まずは手近なところから当たっていくのが妥当じゃねえかと」
源一郎は頷いた。
「判っている。俺もまず最初は結衣が奉公していた美濃屋を訪ねるつもりだ。親分はまず江戸中の呉服問屋で美濃屋の屋号を持つお店を調べてくれ」
「へい」
岡っ引きが畏まった時、下っ引きが案内して町医者が到着した。源一郎は結衣の亡骸を抱き上げた。
「いつまでもこんなところに放っておくのは可哀想だ」
源一郎は抱き上げた亡骸をあたかも生きた娘を運ぶように丁重な手つきで運び込んだ。
その一刻後。源一郎は北町奉行所に戻り、兄の源五と奉行の執務室で対峙していた。
「そうか―」
弟から結衣の死とその事情をひととおり聞いた源五は嘆息した。
「それで死因はやはり頭部の怪我か?」
「はい」
源一郎は軽く頷いた。町医者の検めではやはり頭を強く打った衝撃で、頭部に血の塊ができたのではないかという診立てであった。それが致命傷になったという。凍死の可能性についてはまったくないとは言えないが、この様子では息を引き取ったのは凍える前だろうとほぼ断言した。
更に、医者は死ぬ前に陵辱された事実につついても言及した。
―生娘であったようですな。可哀想にさんざん弄ばれて辛い想いをしたでしょう。
源一郎と結衣の拘わりを知らぬ老いた町医者は気の毒げに言った。それを聞いた時、源一郎は両脇で握りしめた拳が白くなるまで力をこめた。そうでもせねば、大声で叫びだして暴れ出してしまいそうだったからだ。
「それから、どうやら亡くなる前に何者かに手籠めにされたようです」
源五がドンと拳で畳を打った。
「何と、そのような酷い所業をどこの誰がしたというのだ?」
「兄上」
源一郎は結衣の手に残されていた血文字の文章を写し取った紙片を兄に差し出した。
「これが結衣が自らの血で書いたという文なのか?」
「はい」
源五はひととおり眼を通し、?うむ?と腕組みをして唸った。
「つくづく惜しいことをしたものよ。自らの一念を貫き通すためにここまでの壮絶な覚悟を持てるとは。まさに武門の妻にふさわしきおなごであったな」
源五は俣八とまったく同じことを呟いた。
「兄上、結衣の告げた美濃屋というのは、あの娘が奉公していた美濃屋のことにございましょうか?」
源一郎の苦渋に満ちた声に、源五は瞑目した。
「そう考えるのがいちばん筋道の通った話ではないか」
源一郎は端座したまま、うなだれた。そんな彼に兄の労りのこもった声がかけられた。
「源一郎。結衣の遺した血文字の文章を読み、考えることは恐らく誰しも同じであろう。そして、他ならぬそちもまた、それを考えているのではないか?」
源一郎の声がかすかに震えた。
「それでは兄上は結衣が般若一味の引き込みであったと」
「引き込みでなければ、これだけの詳しい内情を知るはずがない。そちには気の毒ではあるが、結衣の遺した文のすべてがそれを物語っている」
「―」
源一郎は言葉がなかった。血文字の遺書を見たときから、その可能性が恐らくはいちばん高いのではあろうと思っていたけれど、今、信頼する兄から通告されると、最後まで信じたくなかったその事実が最早決定的なものになったことを認めざるを得なかった。
「源一郎」
兄の声が呼んでいる。彼は溢れそうになる涙をまたたきで散らし、兄を見た。