霞み桜
「こちらのお武家さまが大仏やさんに是非ともお伝えしたいことがあるそうで」
岡っ引きの背後から、長身の武士が現れた。並々ならぬ存在感に、喜助の小柄な痩身に俄に緊張が漲った。
武士は上物の紬の着流し姿で、網代笠を目深に被っている。
「その方が大仏やか?」
「へ、へえ」
喜助が腰を低くして頷くと、武士は低い声で言った。
「一度限りだ」
「―」
喜助が武士を見上げる。武士が心もち網代笠を持ち上げ、喜助に面体を見せた。
「儂が何故、そなたの罪を目こぼししたか判るか? 何もそなたのためではないぞ。生命賭けで奉公先の美濃屋と愛する父親を救った結衣の美しく優しい心に免じて、そなたの罪を目こぼしすることにしたのだ。ただし、見逃すのはこれ一度きりと心得よ。次はない。そなたも父として娘の心根を哀れと思うなら、二度と盗賊稼業などしてはならぬ」
喜助が息を呑んだ。
「あなたさまは―」
源五が笑った。
「ただ今は病で療養中ということになっておるでな。そうそう顔をさらすわけにはゆかぬのよ」
あっと喜助が呟く合間に、長身の武士は姿を消していた。網代笠の武士が消えた方角に向かい、喜助は両手を合わせて頭を垂れた。
その二日後、久々のお勤めを前に般若一味に突然の招集がかかった。頭領喜助の娘結衣の葬儀の翌日である。
一味の手下には結衣が引き込みとして活動中に不慮の事故に遭い亡くなったとだけ説明され、むろんのこと、血文字で遺した遺書のことは伏せられた。
喜助は眼を伏せて嘉助が手下たちを諄々と諭すのを聞いていた。
「そのようなわけで、どうやら北町奉行の鬼の源五が美濃屋への押し込みを事前に察知したらしい」
「源五め、仮病を使って俺らをまんまと罠に掛けようってえ算段だったのよ」
傍らの徳市が苦虫を噛みつぶしたような顔で言った。
「なら、二十六日のお勤めは中止せざるをえねえな」
手下の誰かが言い、皆が口々に頷いた。
「ここで、お頭から話がある」
嘉助の言葉に、二十人の手下たちの視線が一斉に喜助を見つめた。喜助は低いが、よく通る声で話し始めた。
「皆、今までよく俺についてきてくれた。俺ももう年が明けたら五十だ。頼みにしていた娘も儚く亡くなり、これ以上、お勤めを続ける気力がなくなっちまった。皆には済まねえが、これを限りに般若一味を解散しようと思う」
いきなりの宣言に、手下たちから口々にどよめきが洩れた。大方は一味の存続を願い、喜助に翻意を望むものばかりだ。
喜助は皆が鎮まるのを待ち、再び一同を見回した。
「皆、よく聞いてくれ。俺はもう年寄りで、後は迎えが来るのを待つばかりだが、皆はまだ若い。これからの身の振り方はもちろん皆の好き好きだ。けど、これだけは憶えおいてくれ。手前が犯した罪の報いは巡り巡って必ず手前に跳ね返ってくる。だから、叶うなら、これからの生涯は皆が盗っ人稼業からきれいすっぱり脚を洗い、堅気に戻って陽の当たる道を歩いてくれることを願っている」
―俺はこれまで重ねた悪行の報いで、大切なたった一人の娘を失っちまった。
その時、喜助が飲み込んだ科白の続きを聞いた者は誰もいなかった。ただ、結衣の死の真相を知るただ二人の手下、徳市と嘉助だけは沈痛な面持ちを浮かべ、嘉助の眼には光るものさえあった。
十二月二十六日、北町奉行北山源五は念のために美濃屋信右衛門方に手勢を率いて待機したが、般若の喜助一味はついに現れることはなかった。
その後、江戸でも府外でも般若の喜助がお勤めを働いたという記録は一切残っていない。
その年の暮れ、町外れで細々と仏具屋を営んでいた大仏やは店を畳み、主の喜助はいずこへともなく姿を消した。時折、喜助と話をしていた隣家の煙草屋の主人に暇乞いに現れた喜助は、亡くなった娘の供養のために諸国を巡礼しながらまわり歩くつもりだと語ったそうだ。
人々の歓びも哀しみも飲み込んで、季(とき)はうつろいゆく。江戸に再び春が巡ってきて、寛永寺や随明寺の桜は今年も美しく咲き揃った。
町外れに流れる小さな和泉川のほとりの桜も薄紅色の花をたくさんつけている。
北山源一郎は懐手をして川辺に佇み、岸辺に一本だけ立つ桜を見上げていた。あの日、結衣がこの桜の傍を通ったことは後日の調べで判っている。後に下っ引きによって、結衣が血文字を書くのに自らを傷つけた簪がこの樹の下で見つかったからだ。
その簪は娘の形見として父喜助に届けられたはずである。
四ヶ月前のあの雪の夜、薄幸な少女はこの桜の下で何を見たのだろうか。願わくば、結衣が最後に見た夢が美しく愉しいものであったことを今となっては願うしかない。
源一郎はかすかに笑みを浮かべ、満開に咲き誇る桜を見た。この桜は霞み桜だ。きっと愛する少女が今生の名残に見た夢は彼女が心に願う幸せなものであったに違いない。
春のやわらかな風が川面を渡り、岸辺に佇む源一郎の紋付き羽織の裾を揺らす。源一郎は囁くような声で亡き恋人の名を呼んだ。
「結衣」
できることなら、この満開の桜を二人して見たかった。結衣が生きていれば、この季節に祝言を上げるはずだったのだ。
「旦那、旦那。こんなところで花見と決め込んでる暇はありやせんぜ。日本橋の伊勢屋で刃物沙汰の夫婦喧嘩をやってるんで、止めてくれと奉公人から届けが来てまさあ。何でも亭主が女房に隠れて浮気したとかで」
岡っ引きの俣八が息を切らして橋を渡ってくる。
―やれやれ、今度は夫婦喧嘩か。まあ、殺しよりはよほどマシだな。
源一郎は両手を天に突き出し、うーんと伸びをした。
「よし、このまま伊勢屋に直行だ。行くぞ、親分」
走り出した源一郎に俣八が情けない声を上げた。
「待って下せえ、あっしは旦那のように若ぇ者とは違うんですから」
「さしもの腕利きの親分も俺に敵わねえことが一つくらいあるもんだな」
源一郎が背後を振り返りつつ、走りながら笑う。
「何言ってるんだか。年寄りを粗略に扱うと仏罰が当たるんですよ、知ってますか、旦那」
俣八の悲鳴のような声が春の長閑な空に響き渡った。
(了)
山梔子(クチナシ)
花言葉―とても幸せ、私は幸せ者です、優雅、洗練、歓びを運ぶ、清潔。