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霞み桜

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 そのひと言に、あちこちからどよめきが洩れた。徳市がそれらの声を代弁するかのように言う。
「だが、お頭。お結衣坊はこれが初めての仕事だぜ? 美濃屋といえば相当の大店だ、初めての引き込みを入れて大丈夫なのかい?」
 美濃屋ほどの大身ともなれば当然ながら奉行所も警戒しているのではと暗に告げたのだが、喜助は不敵な笑みを浮かべた。
「何の、結衣は儂の娘として物心つく前から盗っ人の仕事を見て育った娘だ。たとえ引き込みを務めるのは初めてでも、その点はぬかりなくやる。案ずるな、徳市」
「まあ、お頭がそう言いなさるなら」
 徳市はそれでもまだ不満げな表情だ。そして、その頭領喜助の片腕たる徳市の言い分は手下たちの気持ちを反映しているようでもあった。残りの手下たちは年格好はまちまちだが、皆、あからさまに不満や落胆を浮かべている。
「まあ、皆の不安な気持ちも判るが、今回は結衣の初仕事をとくと見てやってくれ。何しろ儂が手塩にかけて仕込んだ娘だ」
 喜助の宥めるような科白に、徳市が肩を竦めた。
「お頭、それにしてもよくお結衣坊に引き込みをさせる気になったな。これまでは、あの娘は一切盗賊稼業に拘わらせる気はないと言い切っていなさったじゃねえか」
 その指摘に、喜助は言い訳めいたことはいわず、ただ静かに笑ってるだけだ。
「あれがどうでも、おとっつぁんの役に立ちたいとせっつくものでな。あれを今回の引き込みにすると決めてからは、色々と引き込みのいろはをたたき込んでやったさ」
 最後にそう言う喜助の顔は奉行所の役人も身構えるという凄腕の盗っ人というよりは、娘が可愛くてならない父親のものだ。徳市が頷いた。
「まあ、お結衣坊にはあっしからもそれとなく教えてやりまさぁ。お勤めは引き込みが上手くやるかどうかで大方は決まってくる」
「ああ、それは心強い。よろしく頼むよ」
 喜助のそのひと言で、二年ぶりの顔合わせは締めくくられた。
 
 暑い。結衣はただ座っているだけでも、うなじを流れ落ちる汗に知らず眉をしかめた。
 その時、気まぐれな風が庭をさっと吹き抜けた。初夏というには遅すぎる季節の生温(なまぬる)い風だ。風が軒につり下げた風鈴と釣りしのぶをかすかに揺らし、ついでに庭の紫陽花も揺らしてゆく。
 風は母親が慈愛をこめて赤児をあやすかのようにゆったりと静かに紫陽花を撫でて通り過ぎた。
 結衣は母親の顔を見たことがない。―というよりも、母親というものがどんなものなのかも知らない。結衣の父は喜助といい、表向きは江戸の町外れで小さな仏具屋「大仏や」を営んでいる。表向きというのは喜助の本業が仏具屋ではないからだ。
 あろうことか、喜助は「般若の喜助」という二つ名を持つ盗っ人であり、その一味は公方さまのお膝元だけでなく関東周辺から上方までに名を馳せる盗っ人集団だ。
 今は水無月下旬とて、初夏にはまだ殆ど色づいてさえいなかった紫陽花はほぼ真っ青に染め上がっている。
 ここ数日、江戸は梅雨の最中の陰気な曇り空が続いている。周囲の景色すべてが鈍色に塗り込められたかのような中、海色に染まった紫陽花がやけに眩しく眼を射るようだ。
 結衣は喜助の実の娘ではなかった。喜助自身は詳しいことは語りたがらなかったけれど、喜助の長年の友でもあり相談役でもある徳市がひそかに教えてくれたことだ。
 もちろん、喜助の実子ではないというのは結衣も喜助から教えられて知っていた。ただ、自分の実親というものがどんな人であったか知りたいという願いは物心ついてから片時も離れず、徳市ならば知っているのではとしつこくせがんだ。
 徳市は最初は頑として応えなかったが、結衣があまりにも拝み倒すものだから、
―俺がお結衣坊に教えたと知ったら、お頭に殺されちまうぜ。
 と、言いつつも内緒で教えてくれた。
 結衣は過ぎる日、喜助が押し込みに入った先の商家の主人夫婦の娘であったという。徳市の話によれば、結衣は江戸の生まれではないということになる。生まれは大坂のそこそこ羽振りの良かった乾物問屋の娘だった。
 そこの主人夫婦はまだ若く、そのときも昂ぶった若い衆が色白で美貌の内儀に乱暴を働いてしまった。良人である主人は女房が眼前で陵辱されるのを見かね抵抗するものだから、とうに殺されていた。
 その側でまだ生後半年ほどの赤ン坊が泣き喚いていた。数人がかりで内儀を輪姦した後、彼らは赤児を殺そうとした。そこで喜助が事態に気づき駆けつけたが時は遅かった。
 彼が駆けつけた時、若い衆の一人が今にも匕首(あいくち)を赤児に向かって振り上げようとしているところで、その傍らにはさんざん弄ばれた末、殺された内儀が骸(むくろ)となって転がっていた。
―止めなっ。
 喜助は鋭い声を投げ、匕首を持った若い手下の横面を張り倒した。
―何で、こんなに酷ぇことをした?
 内儀を犯すだけならまだしも、殺すとは許し難い所業だった。喜助は無様に転がった手下を続け様に殴った。
―お前ら、何てことをしやがる。
 続けて駆けつけた徳市が荒い息を吐きながら、怯える他の若い手下三人を次々に殴った。
―行け、貴様らのような屑を配下に置いておく気はねえ。どこに行くなり好きにしろ。
 ?お頭?、?お頭?と若い者たちは次々に哀れっぽい声を出したが、徳市が凄んだ。
―手前ら、生命を取られねえだけまだありがてえと思え。お頭の気が変わらねえ中にとっとと出ていくんだ。
 その剣幕に、四人は這々の体で逃げていった。喜助はいまだ泣いている頑是無い赤児をそっと拾い上げた。尋常ならぬその場の空気を悟ったかのように、赤ン坊は顔を真っ赤にして泣いている。
―済まねえな、お前をててなし子、母なし子にしちまった。
 喜助が赤ん坊の頭(つむり)を怖々とした手で撫でた。それが、結衣と喜助が父娘の縁(えにし)を結んだ馴れ初めであったという。
 喜助はその時、女房を持っているわけでもなく、子を育てたこともなかった。そんな男が罪滅ぼしからか、不器用な手つきで赤児の襁褓(むつき)を替え、薄粥を食べさせ、赤児を育て始めた。いつしか赤児から両親を奪った罪滅ぼしから始まった繋がりは真実の親子にも勝るとも劣らないものになった。
 結衣は今年、十六になった。押し込みに入った当時の若い衆が劣情を抑えられなかったほど美貌であった母親に似て、雪膚の肌理(きめ)が細かい匂い立つような美少女になった。喜助はこの一人娘を溺愛していると言って良い。
―結衣には盗っ人稼業には一切拘わらせねえ。
 と、宣言し、現に言葉通り、愛娘には盗っ人仕事のことは殆ど語ったこともない。それでも、門前の小僧何とやらで、結衣は成長するにつれて自然に盗賊稼業がどんなものかを大方は知ることとなった。
 結衣に喜助への恨みはなかった。徳市から自分が喜助に引き取られることになった経緯を聞いても、不思議と憎しみの心は湧かなかった。徳市の話では、喜助が結衣の両親殺しに直接関わっているわけではない。
 むしろ、母親に続いて殺されそうになった自分を救ってくれたことに恩さえ感じていた。喜助がいなければ、自分は手籠めにされた母親の後を追っていたろう。結衣という名も他ならぬ喜助が付けてくれたものだし、結衣自身もたいそう気に入っている。
作品名:霞み桜 作家名:東 めぐみ