霞み桜
でも、変なの。あの蝶は確かに作蔵が踏みつぶしてしまったのに。もしかしたら、あまりにこの世ならぬ美しい桜に惹かれて、死んだ蝶の魂が常世から舞い戻ってきたのかもしれない。
そう思っても、不思議に怖くはなかった。ただ、あの蝶にもう一度逢えて嬉しかった。
妙だ、眼の前の景色が、桜がゆらゆらと揺れて眼が霞む。一瞬、視界が白く染まり、眼が見えなくなったのかと焦ったが、ほどなくまた見えるようになった。
不思議とあれほど結衣を苦しめた頭痛はなくなっていた。結衣は最後の力を振り絞って立ち上がった。降りしきる桜の花びらを一身に浴びながら一歩一歩、前へと踏み出す。
純白の花びらが結衣の髪に肩に降り積む。今、白い花びらで身を飾った自分はきっと花嫁が纏う白無垢を着たように見えるだろう。
―源一郎さま。
結衣は最愛の男の名を心で呼んだ。
北山源五も芳野も皆、良い人たちだった。叶うなら、あの人たちの家族になりたかった。母や姉を知らずに育った結衣にとって、初めて身近に接する義姉になるはずだったひとはとても優しく接してくれた。
だけど、私は源一郎さまに逢えたことを後悔はしない。結衣の眼から澄んだ涙が溢れ、頬をすべり落ちた。
結衣の瞼に純白の山梔子の花が束の間、甦る。
―源一郎さまにお逢いできて、結衣は幸せでした。
黄色い蝶が道案内するように、ひらひらと結衣の前を飛んでいる。
結衣は蝶に導かれ、また歩き出した。
その夜、江戸に降った初雪は一晩中降り続き、翌朝になって漸く止んだ。源一郎は定刻通りに北町奉行所に出向いたのだが、そこで急な知らせを番所から受けた。
源一郎は何事かと仲?が呼び止めるのも振り切り、番所まで駆けた。そんな彼の眼に飛び込んだのは、番所の前で座り込んでいる結衣の姿であった。結衣はこの寒空の下、緋縮緬の襦袢一枚きりだった。
岡っ引きの俣八が源一郎の姿を見るや、近づいてきた。
「死んで―いるのか?」
既に訃報は聞いているというのに、源一郎は訊ねずにはいられなかった。
「へえ。まだ年端もゆかねえ身空で、可哀想なことをしやした」
俣八は沈痛な面持ちで言った。源一郎の配下でご用を勤める俣八は結衣が彼の恋人であることも知っている。けして余計なことを言わないこの親分が結衣のことを持ちだすことはなかったけれど、宥めるような口調は最愛の女を失った源一郎の苦衷を十分に察するものだった。
「何故、何故」
源一郎はうわ言のように繰り返した。仕事柄、これまで亡骸は数えきれぬほど見てきた。膾に切り刻まれた無残な死体を検分したこともある。亡くなった仏に憐憫の情は湧いても、所詮はそこまでであった。仕事だと割り切れた。
だが、愛しい女がその仏とあっては割り切れるはずがない。俣八が囁いた。
「気を落ち着けて聞いて下せえ。旦那、どうやら、仏は死ぬ前に手籠めにされたようでして。ざっと改めやしたが、明らかに男に陵辱された痕跡がありました」
しゃがみ込んでいた源一郎がユラリと立ち上がった。
「何だって、今、何と言った?」
俣八が気の毒げに繰り返した。
「仏は乱暴されていやした」
源一郎が吠えるように怒鳴った。
「そいつが結衣を殺したのかっ」
「それは恐らく違えます。ほどなく医者が来ますが、あっしの見たところ、ここに来る途中のどこかで転んだみてえで。その時、不運にも頭をぶつけたんでしょうな。その頭の怪我が致命傷になったようです。ただ」
俣八は言いにくそうに続けた。
「この寒さと雪でやすから、たとえ頭の怪我がなかったとしても、朝までここにいたとしたら凍え死んでいたとは思いやすがね」
源一郎が地を這うような声で呟いた。
「許さん。結衣を嬲りものにしたヤツを殺してやる」
この時、源一郎にとっては祖父のような歳の岡っ引きは膚が粟立った。この若い旦那は怒れば怒るほど、静謐になる。だとすれば、これまで俣八は源一郎が心底から怒った姿を見たことがないのだ。
北山源一郎という男は本当に怒らせれば、身の内から蒼白い焔を燃え上がらせ抜き身の刃のような尋常でない殺気を放つ。敵に回したくない男だ。?一度、食らいついた獲物は逃さない鬼?と血も涙も見ない凶状持ちから怖れられている凄腕の岡っ引きが長いご用を務める日々の中で初めて心底?怖い?と感じたのが、実はこの若い二十二歳の同心であった。
俣八は慌てて源一郎の羽織を掴んだ。そうでもしなければ、源一郎はすぐにも飛び出してゆきかねない剣幕だったからである。
「旦那、お待ちなせぇ。旦那のお気持ちはあっしも判りやすが、旦那にお見せしてえものがあるんですよ」
俣八は番屋の扉にもたれるようにして亡くなっている結衣に近づき、手を合わせて黙祷した。その姿に、源一郎は今更ながらに結衣が既にもうこの世の者ではないことが身につまされ、熱い塊が喉元まで込み上げてくるのを必死に飲み下した。
「これを見て下せえ」
俣八は結衣の手を取り、持ち上げるようにして掌を源一郎にさらした。
「恐らくは」
流石の熟練した岡っ引きも感に堪えたように首を振る。
「自分の手を鋭い切っ先で突いて、血で書いたんでやしょう」
源一郎はあまりのことに言葉を失いつつも、結衣の掌を包み込み、記された文字を辿った。
―はんにゃのきすけ しわすにじゅうろくにちよる おしこみはいる
そっと手を裏返すと、手の甲にも血文字が書かれている。
―ごふくどんやみのや あぶない じゅうぶんなけいかいが
そこで気力が尽きたのか、次の字は判別できないほど大きく乱れていた。
―きをつけて
「これは」
源一郎は俣八を見た。俣八が唸った。
「てえした娘っこだ。あっしもお上から十手を預かって長え年月になりやすが、ここまで壮絶な覚悟で本懐を遂げようとした者をついぞ見たことがありませんや」
源一郎はもう一度、結衣が最後に残した血文字を見た。瀕死の怪我を頭部に負いながら、この極寒の凍え死ぬような寒さの中を物ともせずに夜の中を番所まで歩いてきた結衣。そうまでしてここまで辿り着きながら、力尽きてしまったのだ。
昨夜は生憎、番所には書き役の耳の遠い老人がいるだけだった。若い下っ引きがいれば、まだしも状況は違っていただろう。書き役の老人は表に結衣がいることを知らず、灯りを消して眠ってしまった―。
さぞ寒かったろう。冷たかったろう。頭が痛かったろう。
結衣の傍ら、番所の前に自生したものか、紅椿が一輪、雪に埋もれるようにして咲いていた。源一郎はその椿を摘み取り、結衣の漆黒の髪に飾った。
「一等きれえだぜ。まるで花嫁御寮みたいだ、結衣」
そうやっていると、結衣は死んでいるのではなく、ただ静かに眠っているだけのようにも見えた。しかし、触れた身体の尋常でない冷たさが想い人は既にこの世の人ではない残酷な事実を何より告げていた。
「そなたの花嫁姿、見たかったな」
源一郎は乱れた髪をそっと直し、物言わぬ結衣の亡骸をきつく抱きしめた。
源一郎の眼につかえた涙の塊が溶けて溢れて砕けて散った。文字通り、血の滲むように凄絶な覚悟で結衣が残した血文字。彼は溢れる涙を拭おうともせず、俣八に存外にしっかりとした口調で言った。
「親分、俺は同心だ」