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霞み桜

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 だが、今はあんな気違いのことはどうでも良い。結衣は薄い長襦袢を着たままの姿で部屋を出た。どうやら二階らしいその部屋の周辺に人影は見当たらなかった。他に客がいるのかと疑いたくなるほど、どの部屋も静まり返っている。それが幸いして、結衣は誰にも見咎められず、階下まで降りて門前道に出ることができたのである。
 
 結衣は走った。この役目を終えるまで自分は死ねない。出合茶屋を出たときは既に空は薄墨色に染まっていた。作蔵に責め苛まれていたのは数時間にも渡っていたらしい。
 途中からは小雪が舞い始めた。初雪だった。降り始めた雪は止むどころか次第に烈しさを増してゆく。裸足の脚がかじかんで感覚はとうになくなっていた。直に道はうっすらと雪化粧を施された。そのせいかどうか、結衣は途中で脚を滑らせて転んだ。
 前のめりになった拍子にしたたか頭を打ち、激痛が走った。しばらくは動けなかったけれど、それでも結衣はよろめきながら立ち上がった。
―私は行かねばならない。罪のない美濃屋の人たちを危険な目に遭わせることはできない。
 その一心がともすれば倒れ伏しそうになる身体を支えていた。
 随分と長い間走っていたようだけれど、どうやら気のせいのようである。気が付けば、結衣は小さな橋のたもとに佇んでいた。和泉橋である。ささやかな川の面に降りしきる雪が音もなく舞い落ちては消えてゆく。川岸に雪を戴いた霞み桜が見え、そこで結衣の意識は途切れた。
 次に目覚めたときも結衣はまだ同じ場所にいた。不思議なことに、あれほど降りしきっていた雪はふっつりと止んでいる。結衣は訝しみ、周囲を忙しなく見回した。川岸に霞み桜が立っている。
―今は夏?
 桜は雪を被ってもおらず、張り出した枝には青々とした葉が豊かに茂っている。確かに眠る前は真冬だったはずなのに、不思議なこともあるものだ。
 降り注ぐ陽光を緑の葉が弾き、重なり合った葉が作る天蓋は光の網を地面にひろげる。爽やかな風が川面を渡る度に光の網がちらちらと揺れた。
 茫然と周囲の風景に見入る結衣の耳を涼やかな音が打った。
 シャラン、シャララン。結衣は弾かれたように顔を上げる。はるか彼方で幾つものギヤマン細工の風鈴が鳴っていた。風鈴の音は次第に近づいてくる。その瞬間、結衣は確かに見たのだった。
 緑豊かな霞み桜の下で微笑み合う幸せそうな若い夫婦。その姿はまさしく源一郎と結衣だった。二人はもう一人の結衣が見ていることなど知る由もなく、ギヤマンの夫婦湯飲みで茶を酌み交わし、愉しげに話している。
 あれは霜月の初め、随明寺で風鈴売りから貰った夫婦湯飲みだ。
 結衣の眼に大粒の涙が溢れた。
―霞み桜は願い事を夢に見せてくれるというぞ。
 源一郎の言葉を今更ながらに思い出す。
 では、私は今、幸せな夢を見ているの?
いやと、思い直す。源一郎はこうも言った。霞み桜は願い事を叶えてくれるのだと。ならば、あれはきっと紛れもない現実。今ここにいる我が身こそが幻で、きっと桜の下で微笑み合う眩しい二人が真実であるに違いない。
 結衣が幸せそうな自分たちの姿に見惚れていると、突如として風鈴の涼やかな音色が止んだ。同時に桜の下の二人も徐々に遠ざかってゆく。
 待って、消えないで。
 叫んでも、声が出ない。結衣は茫然としてその場に取り残された。
 寒い、震えが止まらないほどに寒い。眼を開いた結衣はあまりの寒さに身震いし、しばらく自分が気を失っていたのだと知った。では、先刻見たばかりのあの幸せな一刻はやはり夢幻にすぎなかったのか。
 落胆と絶望がせめぎあい、また新たな涙が湧いた。
 駄目、こんなことをしているわけにはゆかない。結衣は烈しく首を振った。どうやら、自分は霞み桜の下で意識を手放していたようである。ここから源一郎のいる番所は近いはず。何としてでも、行かなければ。
 立ち上がろうとした結衣を鋭い頭痛が襲った。頭が痛い―。あまりの痛みに叫び出しそうだ。でも、ここで私は死ぬわけにはいかない。優しくしてくれた美濃屋の内儀おこうの顔が浮かんだ。普段は厳しいけれど、意外に情に脆い女中頭のお登勢、夜更けまで布団の中で他愛ない話で盛り上がった歳の近い女中仲?。
 美濃屋の人たちの笑顔が通り過ぎてゆく。あの人たちのためにも行かなければ。そして、おとっつぁんにもこれ以上、無益な罪を犯させてはならない。おとっつぁんがお縄になって獄門送りになる前に、盗っ人なんか止めさせなければ。
 凄腕と評判の北町奉行北山源五が本気になったからには、たとえ般若の喜助といえども、お縄になるのは時間の問題だろう。取り返しのつかないことになる前に、般若の一味を解散させるよう、喜助に頼まなくては。
 だけど、私はもう歩けない。頭が痛くて、どうしようもない。結衣は霞み桜の下に座り込んだ。太い幹に背をもたせかける。
 せめて今は自分にできることをしなければならない。結衣は懐に忍ばせていた銀の簪を取り出し、自分の手に突き刺した。一瞬痛みが走ったものの、結衣は頓着せず、吹き出した血を指につけ両手の平に書いた。

―はんにゃのきすけ しわすにじゅうろくにちよる おしこみはいる 
 裏だけでは足りず、手の表にも書いた。

―ごふくどんやみのや あぶない じゅうぶんなけいかいが
 そこで力尽きかけ、ありったけの気力を振り絞り
―きをつけて
 と、書き足した。
 父の名前を出すつもりはむろん最初からまったくない。結衣はただ美濃屋が般若の喜助に狙われていることを源一郎に告げたかっただけだ。
 結衣は銀の小さな簪を見た。先の方に紅い小さな丸玉がついているだけの安物だけれど、父が買ってくれたもので大切にしていた。
 おとっつぁん。心の中で呼びかけた。
 私、おとっつぁんの娘になれて幸せだった。おとっつぁんのためなら何でもすると言っていたけれど、これで本当に良かったのかな。
 だけど、おとっつぁん、私はどうしても美濃屋の人たちを見捨てることはできなかった。あんなに良い人たちがもしかしたら殺されるかもしれないなんて、そんなことは我慢ならなかった。
 結衣は桜の樹に寄りかかり空を見上げた。ぬばたまの闇から白いものがひっきりなしに落ちてくる。それは生まれて初めて見るかのうような美しい眺めであった。
 冬に降る雪は春に咲く桜の花びらに似ている。
「雪が綺麗」
 呟く声は儚く、凍てつくような真冬の大気に散っていった。
 結衣は眼をまたたかせた。
―雪が花びらに変わっている?
 降りしきる切片が薄紅色の花片に変じていた。薄紅というよりは限りなく白に近い花びらがはらはらと天から零れ落ちてくる。
 結衣はハッとして背後を振り返った。花びらどころか葉の一枚さえなかった霞み桜が満開になっている。
「こんな綺麗な桜、見たことがない」
 結衣は呟き、涙を流した。花また花、隙間もないほどの無数の桜花が霞み桜を彩っている。
 いずこからともなく小さな蝶がひらひらと飛んできて、満開の桜花に戯れかけるように舞っている。
―あの蝶は。
 結衣は眼を眇めて、ひらひらと飛ぶ蝶を見つめた。間違いなく、あの黄色い愛らしい蝶は美濃屋の山梔子の傍で見た蝶だ。
作品名:霞み桜 作家名:東 めぐみ