霞み桜
結衣は所在なげに周囲を見回した。今立っているところからは長い石段が見える。江戸の町の人はいつしかこの坂を?息継坂?と呼ぶようになった。その名の所以は長くて勾配の急な石段であるため、女子ども年寄りは途中で休み休みして登らねば上まで辿り着けないからだ。
石段の始まる横には、小さな茶店がある。ここの茶店は腰の曲がった老婆が一人でやっているが、春の桜の時季にしか作らない桜餅は絶品だとわざわざ遠方から買いにくる客がいるほどで、花見の頃となれば、この小さな茶店の前には長蛇の列ができる。
結衣も一度買いに並んだことがあるけれど、結衣の二人前で丁度桜餅が完売してしまい、長時間待った挙げ句、買うことはできなかった。以来、閉口して並んでまで買う気は失せてしまった。
何しろ老婆が一人で作るため、一日に売ることのできる桜餅の数が知れているのだ。
今の真冬の時期には花見の賑わいが嘘のようにこの界隈は静まり返っている。見れば老婆の具合でも悪いのか、いつも表は葦簀で囲ってある店はきっちりと閉ざされ、木戸に
―きょう、やすみます。
と、たどたどしい字で書かれた張り紙が出ていた。張り紙の右下端が既にめくれ、寒風にわずかに揺れている。
花見の時分を覗いては、この門前道は昼間でも人通りがない。ましてやこの寒さでは、誰もわざわざ好んでくる者はいないだろう。老婆が店を閉めたくなる気持ちも判らないではなかった。
と、結衣のすぐ後ろを男女らしい二人連れが通り過ぎていった。これは何も珍しいことではない。茶店と向かい合うように少し離れた場所には数軒の料理茶屋が居並んでいる。二人連れはここから出てきた客に違いない。
いや、実のところ、数軒ある店はすべて料理茶屋などではなかった。見た眼は小体な料理屋を装ってはいるけれど、内実は出合茶屋なのだ。つまり、男女がひそかに忍び逢う連れ込み宿なのである。
こんないかがわしい場所に来るほどだから、大方は道ならぬ恋に焦がれている手合いだろう。結衣は穢らわしいものでも見るかのように背後の二人を振り返った。
四十ほどの男と男とさして変わらない年頃の女がもつれ合うようにして歩き去ってゆく。
女が何か言い、男の腕にしなだれかかる。男が馬鹿みたいに笑い声を上げ、二人の姿はやがて辻を曲がって見えなくなった。
あの二人共に家庭を持つ身だろう。それぞれ良人や亭主、子がいるはずなのに、何故、穢らわしい関係を続けるのか。まだ未通の娘ならではの潔癖が余計に結衣の眉をひそめさせた。
幾ら洒落た料理茶屋の風を装って営業していても、どうしても淫靡な雰囲気を醸し出してしまうのは男女が密事を重ねる場所柄ゆえ致し方ないのだろうか。
結衣は何故、作蔵がこのような場所を指定したのか皆目判らなかった。確かに人の眼を避けるという点では良いのかもしれないけれど、それなら随明寺の境内でも良かったはずだ。そこまで考えた時、ふいに背後から抱きすくめられた。
「―?」
少し汗のにおいがする体臭は紛れもなく男のものである。結衣は暴れた。しかし、相手は屈強な男、少女の儚い抵抗は易々と封じ込まれる。しかも結衣が抗えば抗うほど、拘束する力は強くなる。
突如として口許に冷たい湿ったものが当てられ、クラリと目眩がした。ツンとした匂いが鼻につく。意識が急速に遠のいてゆく。
―助けて、源一郎さま。
暗闇に意識が飲み込まれる寸前、結衣は最愛の男に助けを求めた。
どれだけ意識を失っていたのか。漸く目覚めたというのに、まだ意識は朦朧として、身体がだるい。恐らく何かの眠り薬を嗅がされたに相違なかった。四肢がわずかに痺れていることからすれば、痺れ薬も入っていたのだろう。
唐突に訪れた覚醒は結衣に悶えるほどの羞恥と屈辱を感じさせた。あろうことか、結衣は紅い腰巻きだけを付けた全裸に近い、あられもない格好をしていた。
―これは何なの?
無意識に逃れようと身体を動かしたものの、手足に鈍い痛みが走っただけだ。
結衣は信じられない想いで腕を見た。紅い縄紐で両腕をひと纏めに括られている。恐る恐る後方を見やると、両脚は大きく開いた体勢でそれぞれの脚をやはり紅縄で棒のようなものに繋がれていた。
縛めを解こうとしても、身動き一つもできないほど縄は堅く結衣の身体に食い込んでいる。
「やっと気が付いたか。薬が効きすぎて永遠に眼を覚まさねえんじゃないかと思ったぜ」
背後から忌まわしい声がゆっくりと近づいてくる。結衣は唇を噛みしめ、自分をあられもない姿で繋いだ男を睨み上げた。
「何のつもりなの?」
男―作蔵がニヤリと口の端を引き上げた。なまじ男前だけに、こういう皮肉げな笑い方をすると、何とも陰惨さが際立つ。
「いつかお前に言わなかったか? 私は必ずお前を手に入れると。こうも言っただろう?」
―私は綺麗なもの、美しいものが好きだ。だが、あまりにも美しすぎるもの、愛らしいものはこうして踏みつぶしてやりたくなるんだ。
作蔵は結衣の耳許にあの毒の言葉を注ぎ込んだ。
「どんな誘いをかけても私が相手なら乗ってはこねえだろうと思ってな。悪ィが、お前の親父の名前を使わせて貰った」
そう、丁稚が今朝、手渡した文にはこう書かれていたのである。
―きすけのじゅうだいなひみつをしる。これをしりたくば、ひる八ツにずいめいじもんぜんにくるべし。
さくぞう
結衣にも読めるように平仮名で書いてあったから、すぐに読めた。
結衣は作蔵の眼を真正面から見た。本当はこんな無防備な状況が怖くて堪らない。明らかに眼に狂気を宿した男と二人きりなのが怖ろしかった。しかし、こんな嗜虐趣味を持った男には怯える様を見せれば、余計に歓ばせ嗜虐心を煽るだけだろうと思い、懸命に怯えを堪えていたのだ。
「それで、おとっつぁんのどんな秘密を知ったというの?」
声が震えないようにしながら虚勢を張って言う。作蔵が嗤った。
「威勢が良いな。普通、こんな状況で目覚めれば、助けを求めるか許しを請うかのどちらかだろうに」
「応えなさい。おとっつぁんがどうしたっていうの?」
よもや喜助が般若の頭領だという秘密をここの暗愚な男が知っているとは思えない。だが、世間では多少変わり者だが、真面目一徹な小商人(こあきんど)で通っている喜助が持つ重大な秘密といえば、それくらいしかないのも事実なのだ。
それに、この作蔵という男、存外に鋭い嗅覚を持っている。
作蔵が陰惨な嗤いを浮かべたまま真正面にに立った。
「よほど親父が大事と見える。そんなに親父の秘密が知りたいか」
見下ろす男に、結衣は顎を反らした。
「生憎とうちのおとっつぁんにたいした秘密があるとは思えないわ」
「フン、そんなに知りたければ教えてやろう」
短い沈黙の後、作蔵が得意げに披露した話に、結衣は笑い出したくなった。
「喜助には情人(いろ)がいる。縄暖簾の女将で、四十前の大年増だ。まあ、そこそこの別嬪らしいが、かれこれもう十年近くも続いてるって話だぜ、マ、知らなかったのは娘のお前だけだろうがな」
?どうだ、参ったか?というように見下ろされ、結衣は声を立てて笑った。
思わぬ反応に作蔵が鼻白む。