霞み桜
「ああ、兄上の仰せだが、それがどうかしたか?」
いいえ、と、結衣は微笑んだが、その笑顔がどこか儚く消え入るようだと妙な胸騒ぎがしたのは単なる杞憂なのか。
結衣は最後まで兄を?兄上?ではなく?お奉行さま?と呼んだ。些細なことにいちいち過剰に反応する我が身が男として情けない。つまりは、それほど結衣を好きだ、惚れているということにもなる。
今日の対面の何が結衣の心に翳を落としたのだろうか。あれほど一途に自分を慕ってくれていた娘がたった一瞬で心変わりをしてしまったというのか。
源一郎は一人、和泉川の川辺に佇み師走の風に吹かれていた。江戸の人々が?霞み桜?と呼ぶ不思議な桜は今日も黙して源一郎を見下ろしている。
同じ時刻、北町奉行所の奥まった一室、奉行の執務室に戻った北山源五は側近の新田和馬を呼んでいた。
「お呼びでございますか?」
和馬は既に五十近いが、長年、北町奉行所の与力を務めたベテランである。北町奉行に就任してからやっと五年めになる源五をよく助けて働いてくれていた。
「美濃屋に結衣という娘が住み込みで働いている。その娘を調べてみてくれ」
和馬が一瞬、息を呑んだ気配が伝わってくるのを源五は見逃さなかった。
「お奉行、その娘は若さまの許婚も同然の者では」
案の定、和馬が問うてくる。源五はほろ苦く微笑した。
「さよう。思わぬところで獲物が釣り針にかかったのやもしれん。だが、儂は叶うことなら、儂の勘が今度ばかりは外れておることを祈るばかりだがな」
「怪しいところがあるのですか?」
「ふうん、どうもな。儂が奉行であることを知ったときのあの娘の愕き様が尋常ではなかった」
「お言葉にはございますが、町娘が自分の恋人の兄が町奉行だと知れば、誰でも愕くのではありませんか?」
源五が首を傾げた。
「さようではあろうが、どうも今回、あの娘の態度が儂の勘に何かを訴えかけてくるのだ」
「勘、ですか。お奉行の勘はまず外れたことはございませんからな」
源五が笑いながら和馬を見た。
「世辞を申しても、何も褒美は出んぞ」
ですが、と、和馬が遠慮がちに言った。
「今回ばかりは、お奉行の勘働きも鈍ったのやもしれませんぞ」
「儂もそう願うばかりだ」
「御意」
和馬が頷いて立ち上がる。踵を返したその背に、源五は声を落として告げた。
「今更だが、源一郎にはこのこと、子細が判るまでは他言致すな」
「ハッ」
和馬は深々と頭を下げて執務室を出てゆく。
皮肉なものだと思った。結衣に告げた言葉は嘘ではない。弟の源一郎は我が弟ながら見所のある若者だ。この女しかおらぬと惚れに惚れ抜いて娶った妻との間に後嗣を残せなかったのは心残りではあるが、源一郎のような年若い弟がいれば、この先、何の愁いもない。
ゆえに、源一郎がこの女ならと見込んで連れてきた結衣の身許を詮索するつもりはまったくなかった。身分違いをいうなら、そもそも自分と芳野も似たようなものだ。
祝言に先立ち、結衣をそれなりの武家の養女という形を取り、嫁がせば良いだけの話である。学問も剣術にも優れながら、弟は幼い頃から、いつも一歩引いていた。それが次男であり、親でもないのに育てて貰っている兄夫婦への遠慮であることを源五は知っている。
そのこともあり、源五は弟が持って生まれた才知を十分活かせるようにと奉行所入りを勧めた。期待どおり、いや、それ以上の才覚を弟は現して数々の難事件を解決している。奉行所でも源一郎が若いながら古参の与力にも一目置かれているのは何も奉行の弟だからではない。
源一郎自らの人なりや優れた能力が自然に年配者にも敬意を払わせているのだ。何より源一郎が奉行の弟であることを知る者は与力の中でも知れている。同じ北山姓のため繋がりは隠しようはないが、遠縁の若者を源五が預かっているということになっていた。
それも同心になるに先立ち、源一郎が
―俺は奉行の弟ということで、特別扱いはされたくありません。
と、奉行の弟であるという立場を隠したいと主張したからだ。
今時の若い男には珍しいほど一徹な正義感だが、ひとたび捕り物となれば、その透徹な眼力は冴え渡り時に源五ですら見抜けないような複雑な絡繰りを見抜き解決に導く。
ではあるのだが、捕り物においては抜群の勘働きをする弟も恋する女に関してはその勘も無用の長物になるらしい。
後に残った源五は深い溜息をつき、握り拳で肩を叩いた。
「どうも最近は妙に凝っていかんな」
結衣がその伝言を受け取ったのは師走もいよいよ下旬に差し掛かった十九日のことだった。北町奉行北山源五と対面してから、既に三日が過ぎている。
迷っている間にも、日々は無為に過ぎていった。
育ての父である喜助を裏切ってもなお、罪なき美濃屋の人々の無事を優先するか?
実の父とも慕う喜助のためになら何でもするという昔からの気持ちを重く見て、このまま般若一味の引き込みとしての役目をまっとうするか?
結衣の取るべき道は最早、二つに一つであった。
その日の朝、主人夫妻や家族が住まう奥向きの拭き掃除をしていると、まだ幼い丁稚が近づいてきた。
「お結衣さん、これを」
漸く八歳になったばかりの丁稚は誰からとも言わず、結衣に結び文を押しつけるようにしてそそくさと駆け去っていった。唖然として小さな後ろ姿を見送り、結衣は渡された文を開いた。
その文面を眼で追っていた結衣の顔から血の気が引いた。結衣は文を丸めて懐に押し込み、何事もなかったかのように拭き掃除を始めたが、その可憐な面は依然として蒼白いままだった。
同じ日の昼下がり、結衣は女中頭のお登勢には実家の父が持病の腰痛を起こしたそうなので、少し見舞に出かけてくると告げ、美濃屋を出た。
勝手口から広い庭を通り、広い敷地をぐるりと囲んだ生け垣から柴折り戸を抜けて狭い裏路地に出る。それが美濃屋の奉公人たちが一般に使う通路だ。その路地からは直に表通りに出られるようになっている。
表通りには今日も変わらず、たくさんの人々が忙しなく行き交っている。心なしか師走に入ったばかりの頃より、通りをゆく人々の足取りも速さを増したようである。
結衣は表通りに出て、天を仰いだ。どうやら初雪でも降りそうな生憎の空模様である。江戸八百屋町の上に垂れ込めた空は低く、どんよりと曇っていた。
寒さも並ではない。この分では帰りは雨か雪になるだろうからと傘を持って出てきたのは我ながら正しかったかもしれない。吹き抜ける師走の風に身を震わせ、結衣は畳んだ傘を握りしめて歩き始めた。
約束の場所、随明寺の前に辿り着いた時、空はますます濃さを増していた。結衣は重い溜息をつく。まるで今の結衣の心をそのまま写し取ったかのような暗い空に、余計に気分が滅入ってしまう。とはいえ、別に恋しい男と逢い引きをするわけでもなし、天気がどうあろうと関係はないだろう。
むしろ、結衣がこれから逢おうとしているのは、この世で最も顔を見たくない男だった。