霞み桜
最後のひと言は結衣に向けられたものだったが、それにも兄夫婦は笑い出しそうな顔で堪えている風だ。
今日の初めての対面は源一郎の兄の別邸だという屋敷で行われた。いきなり本宅での対面となれば、結衣が気後れするのではと敢えてこじんまりとした別宅が選ばれたと聞いている。
更に約束の刻限に源一郎に連れられてきた結衣は湯浴みさせられた上、義姉の手によって美しく飾り立てられた。今も身に纏っているのは袖を通したこともない薄桃色に梅花が細かく散った美しい小袖に上物の黄金色の帯、結い直された髪にも幾本もの高価な簪が惜しげもなく挿されている。
化粧もこれまでしたことがなく華やかで、知り人が見ても一目で結衣だとは判らないほどの変わり様だ。町娘のなりでも十分な美少女であったが、今の結衣は垢抜けて武家のお嬢さまにも見える。どこか幼さを残した町娘の装いと異なり、年が明ければ十七歳になる娘盛りの色香が匂い立つようだ。
これでは源一郎が眼を奪われるのも無理はないといえた。
「それでは、これにて対面の儀は終わり、結衣は俺の正式な婚約者となったと思ってよろしいのですね、兄上」
源一郎の念押しに、兄は大きく頷いた。
「むろんだ。年明けに結納を交わし、春、桜が咲く頃に祝言というのはどうだ?」
とんとん拍子に話が進んでゆくのに、結衣は眼を丸くした。その戸惑いを察したように、隣から芳野が訊ねた。
「結衣どのは早すぎるとお思いなの?」
その指摘に、源一郎の整った面が曇った。不安げに結衣を見つめている。結衣は深呼吸して、手をつかえた。
「私も源一郎さまを心よりお慕い申し上げております。ただ」
「ただ?」
兄が心もち身を乗り出した。結衣は勇気を集めてひと息に言った。
「源一郎さまと私のことを認めて頂きながら、いまだ兄君さまのお名前をお伺いしておりません。真にご無礼な申し上げ様とは存じますが」
と、ふいに兄が笑い出した。その笑い声で、場に満ちていた張りつめた空気が和む。
「いやはや、そうであったな。結衣よ、実のところ、儂はこの弟を信頼しておってのう。源一郎がこれと見込んだ娘であらば、身許の詮索も一切無用、身一つで嫁に来れば良いという腹づもりであったのよ。されば、端から顔合わせというのも形だけのもの、そなたに逢う前から儂はそなたらのことをとうに認めておったのだ」
傍らから芳野が笑いを含んだ声で付け足した。
「それゆえ、お名前を名乗るのをお忘れになったのですか、殿」
「うむ、まあ、そういうことよ。さりながら、結衣の申すは理。まずはこちらも名を名乗るが筋というものだ。結衣、儂は北山源五泰典と申す」
「北山源五―泰典さま」
結衣は聞いたばかりの源一郎の兄の名を呟いた。
この名前、どこかで聞いたことがある。刹那、結衣は息を呑んだ。
「よもや、兄上さまはお奉行さまでは」
結衣が同じ場所に座って良いような相手ではない。結衣が咄嗟に手をつかえようとするのに、源五は手で制した。
「なに、奉行だとて人の子。しかも、そちは可愛い弟の嫁女になる娘ではないか。何も儂の正体を知ったからとて、そのようにへりくだる必要はない」
しかし、結衣の声は依然として震えていた。
「お奉行さまは確か町の噂ではご病気とお伺いしておりましたが」
眼前の源五は顔色も良く、至って壮健そのものだ。それに対して、源五は呵々大笑した。
「とりあえず、そういうことになってはおるようだが」
そこで源一郎が控えめに説明する。
「すべては御用向きのことだ」
「では、子細あってご病気だという噂をわざと広めておいでになるのですね?」
結衣の顔は最早、蒼白であった。名だたる盗っ人一味からは?鬼?と怖れられている凄腕の北町奉行が仮病を使い引き籠もっている理由は一つしかない。
―盗っ人たちを油断させ、鬼奉行のおらぬ中とのこのこと出てきた盗っ人一味を一網打尽にするため。
「つまりだな、結衣、兄上は」
言いかけた源一郎を源五が鋭い眼で制した。その眼にはこれまでとは打って変わって剣呑な光が閃いている。
―何も申すでない。
名奉行の眼は告げていた。源一郎は息を呑み、頷いた。
あまりに動転していた結衣は、奉行と源一郎の咄嗟のやりとりに気付くゆとりはなかった。
「義理とはいえ仮にも兄と妹の間柄になるのだ。奉行ではなく兄と呼んではくれまいか」
しかし、源五はもう穏やかな表情に戻り、優しく結衣に声をかけた。
結衣は上擦る声を懸命に抑えつつ応えた。
「ありがたきお言葉にございます」
源五が笑みを絶やさぬ表情で続けた。
「今一つ結衣に訊ねておきたい。我ら夫婦には生憎と子がおらぬ。幸いにも弟の源一郎が頼もしく育ってくれた。儂はこの弟に北山家の家督を譲るつもりでおる。この先は知れぬが、北山家は現在ご公儀より三千石の扶持米を賜る身。もしや弟もこの先、町奉行どころか幕府の要職を担う身となるやもしれん。そなたはそんな源一郎を妻として生涯支え、連れ添うだけの覚悟はあるか?」
結衣からのいらえはない。
源五が笑顔で続ける。
「とはいえ、我らだけで縁談を決めるわけにもゆかぬ。聞けば、そなたは父一人娘一人だという。男手一つで育て上げたそなたのゆく末は父御もさぞ気がかりであろう。そなたの父御にもまずは内々で挨拶して話を通してから、正式な結納という運びが良かろうの」
瞬時、結衣の顔が心持ち強ばる。
「―はい」
永遠にも思えるほどの沈黙の果てに、消え入るような結衣からの返答があった。
対面は無事に終わった。晴れて親代わりの兄にも認められて源一郎の婚約者となったはずなのに、結衣の表情はどこか冴えなかった。
源一郎はやはり、自分が町奉行の弟であることや、北山家が大身であることを知らされ、結衣が怖じ気づいてしまったのではと不安を抱いた。最後に北山家の家督をいずれ継ぐであろう源一郎の妻としての覚悟はあるかと、兄は訊いた。質問に対して結衣からの返答ははなかなかなく、やっと返ってきたのは聞こえるか聞こえないかのような頼りないものだった。
屋敷を出た源一郎は結衣を改めて見つめたものだ。既に着物はいつもの町娘の装いに改めているものの、結衣の武家娘姿の艶やかさは今なお源一郎の脳裡に灼きついて離れない。
―飾らないこの姿も可愛いが、盛装をした結衣はもっと綺麗だ。
と、今もあの姿を思い出す度に、みっともなく頬が緩みそうになる。兄や義姉が見れば、また笑われるだろうが。
しかし、兄にも認められ婚約や祝言の話まで具体的に出たというのに、有頂天になっているのは源一郎だけで、結衣は少しも嬉しそうではない。
和泉橋のたもとまで来た時、結衣は言った。
「もう、ここで大丈夫です」
ここまで来たら、美濃屋までは眼と鼻の先だ。それに、結衣はいつも源一郎の送りを途中で拒んだことはなかった。一刻でも長く一緒にいたい、その想いは結衣も源一郎も同じであったはず。
にも拘わらず、何故、急に送って欲しくないと言い出したのか。源一郎には結衣の心を測りかねた。
しかも、別れ際、結衣がふっと訊ねてきたのである。
「源一郎さまに奉行所勤めを、お役人になるようにと勧めたのはお奉行さまだったのですね」
予期せぬ問いに源一郎は虚を突かれた。