霞み桜
「どうしたのですか? やはり帯の締め具合が少しきつかったのかしら」
女は気遣いの色を美しい細面に滲ませて、結衣を覗き込んでくる。その澄んだ瞳とまともに眼を合わせていられず、結衣はひっそりとうつむいた。
「そのように堅くならず、少しお楽になさい。何も私たちはあなたを取って食おうというわけではないのですから」
女は軽やかな笑い声を立てた。
「さて、これで良いかしらね」
女が黒塗りの立派な手鏡を差し出してくる。裏には桜が蒔絵で施された立派な品だ。結衣など手にしたこともない代物である。
鏡を覗き込めば、そこには美しく化粧された見知らぬ若い女が映っていた。
その時、部屋の襖が細く開いた。
「義姉上、そろそろ支度はできましたか?」
その声だけで源一郎だと判る。女が呆れたように柳眉を上げた。
「まあ、源一郎どの。仮にも女人の着替え中を断りもなく覗くとは不作法にもほどがありますよ」
源一郎の狼狽えた声が聞こえてくる。
「義姉上ッ、俺は何も覗いてなんか」
上擦った源一郎の声がおかしいのか、女はクスクスと笑いながら結衣を見た。
「ほんに辛抱がない。今からこれでは、先が思いやられますね」
女が立ち上がり、サッと襖を開けたものだから、間近にいた源一郎は?うわっ?とみっともない声と共に部屋に転がり込む羽目になった。
「源一郎どの、はしたない。私はあなたをそのように我慢の利かぬ人に育てた憶えはありませんよ?」
女に睨まれ、源一郎は身を竦めた。罪人たちからは?凄腕の若いの?と畏怖されている北町奉行所の新鋭源一郎も義姉の芳野には頭が上がらないようである。
「いや、俺は別に」
長身を縮めて座り、子どものように言い訳する源一郎の姿はまるで母親に叱られる子どもそのものだ。源一郎が語ったとおり、兄夫婦が彼の親代わりであったというのは真実なのだろうと思える光景であった。
いつもの沈着な彼からはおよそ想像もつかぬ慌てぶりに、思わず笑いが込み上げる。源一郎はそれを目ざとく見つめたようで、恨めしげに結衣を眺めた。
「何だ、結衣まで俺を笑い者にするのか」
その時、上手の襖が静かに開き、一人の男が入ってきた。結衣は固唾を呑んで、その人物を凝視する。
その男は三十代後半、すっくとした立ち姿やきりりと整った涼しげな容貌は愕くほど源一郎に生き写しである。ただ、この男には弟よりはるかに人生経験を積んだ重みというものが自ずから備わっていた。
いや、それだけではない、けして傲岸不遜でもないのに、むしろ彼を取り巻く雰囲気は穏やかなものであるはずなのに、対する者を威圧するかのような圧倒的存在感がある。不思議な男だった。
この男が源一郎の兄であることは疑いようもない。女が座り、両手をつかえたのを潮に、結衣も見様見真似で端座してひれ伏した。
「殿、こちらが源一郎どのの仰せになっていた結衣さまにございます」
?殿?のひと言に、結衣の身体に緊張が漲った。旗本の当主ゆえ、妻女が?殿さま?と呼ぶのではあろうが、町人の結衣の知る世界に?殿さま?など存在しなかったからだ。
先刻の男のものらしい、低い声が頭越しに聞こえた。
「そう堅くならずとも良い。そなたの話はこの弟から嫌になるほどきいておるでな」
「兄上ッ、何もそんな余計なことを」
源一郎が蒼くなったり紅くなったりするのに、男が軽やかな声を立てて笑った。
「惚れたおなごの前では、さしものお前も良い格好をしたいのだな。まるで子どもだぞ、源一郎」
「うっ、兄上」
源一郎が言葉につまり、真っ赤になった。兄とのやりとりも先刻の義姉同様、兄と弟というよりは父と息子のように思える。
男より少し下手に座した源一郎は今日は藍色の小袖に濃紺の袴だ。同心姿ではない源一郎を結衣は初めて見ることになる。江戸の女たちの憧れの紋付き羽織着流しの粋な姿もむろん良いが、何気ない袴姿は彼の若々しい男らしさを更に際だたせている。
対する源一郎の兄は黒っぽい上物の紬で仕立てた着物を着流しにしている。下座に位置する兄の奥方と結衣は並んでいた。
「殿のおっしゃるとおりですよ。そのように緊張しないで。初めて武家屋敷に来るあなたが緊張してはと敢えて広間での正式な対面ではなく、私用でお客さまをおもてなしする小座敷にお通ししたのですからね」
傍らの芳野が優しく言い聞かせるよう添える。この芳野こそ元の名はお芳といい、北山家の用人の孫娘にして、嫁ぐ際は今は亡き先代、つまり源一郎兄弟の両親が猛反対したという件(くだん)の嫂であった。
だが、今の芳野から町家の出であるということを推測するのは難しい。それほどに、気品ある美貌といい、洗練された立ち居振る舞いといい、武家の奥方として何一つ不自然なところはなかった。
ここで芳野が静かに出ていった。
威丈夫の兄がおもむろに口を開いた。
「戯れ言はともかく、そなたの話は既にこの弟より詳しく聞いて存じておる。ついては、そなたも我ら夫婦の話は源一郎を通じて知っているものと思う。好き合うておる者同士、武家方、町方だと身分の違いを理由にして引き裂くのも酷いことよ。どうも回りくどい話は苦手ゆえ単刀直入に申すが、儂としては源一郎とそなたさえ合意の上であれば、そなたたちの結婚に関して何も異議を唱えるところはない」
結衣の眼が大きく見開かれた。その瞳ににっこりと微笑みかけ、兄は告げた。
「弟をよろしく頼む」
頭まで下げられ、結衣は慌てて平伏した。
「そのような、勿体ないことにございます」
涙が溢れて止まらなかった。こんなに簡単に認められても良いのだろうか。自分だけがこんなに幸せになって許されるのだろうか。
その時、芳野が茶菓を捧げ持つようにして入室してきた。その背後から鉄錆色のお仕着せを着た奥女中らしい女が続く。
芳野がまず高坏に盛った綺麗な干菓子を並べ、腰元が茶托に乗った立派な青磁の湯飲み茶碗をそれぞれの前に置いた。腰元はすぐに下がり、芳野はそのまま元の場所に結衣と並んだ。
「あらま、殿。何を仰せになったのですか、結衣どのが泣いておりますよ」
芳野が兄を軽く睨むと、兄が頭をかいた。
「儂は別に何も申してはおらぬぞ。ただ、二人さえ承知であれば、この婚姻を認めると申しただけだ、のう、結衣」
救いを求められるように促され、結衣は殊勝に頷いた。芳野が艶やかに微笑む。
「源一郎どのも何かおっしゃいませ」
だが、源一郎は惚(ほう)けたように結衣を見つめているばかりである。芳野がさもおかしそうに袂で口許を覆って忍び笑いを洩らした。
「殿、源一郎どのは先刻から結衣どのに見惚れておりまする」
兄も笑いながら頷く。
「真よの」
「今からこの有り様では、祝言の日なぞ花嫁御寮のお召し替えが終わるまで待ちきれないのではございませんこと?」
芳野がフフッと童女めいた笑いを洩らすのに、源一郎がハッとした。
「義姉上、何かおっしゃいましたか?」
芳野と兄は呆れたように顔を見合わせ、芳野が応えた。
「いいえ、結衣どのはほんに美しいと申しておりましたのよ」
涼しい顔で応える義姉に、源一郎は生真面目に頷く。
「さようにございますな。結衣、綺麗だ」