霞み桜
皆まで言い切れないどころか、語尾が震えている。嘉助が大仰な息を吐き出した。
「お前は昔っから、嘘をつくのが天才的に下手だった」
天才的に下手だなんて、また兄ちゃんの笑えない冗談が始まったと、いつもなら笑い転げるところが、今日は顔がひきつるばかりだ。
結衣は厭々をするようにかぶりを振り、顔をうつむけた。これ以上、まともに嘉助の顔を見ていられない。
嘉助はまた小さな溜息をつく。
「お前が八丁堀に接近したと知ったときには、まさかと思ったぜ。俺はお前を小さなときから見て知ってるから、手練手管で男を誑かすような娘じゃないってことは判ってる。だから、こいつはまずいなと思ったんだ。けどよ、お前は仮にも般若の喜助の娘なんだぜ、そんなお前がよもや同心に本気でのぼせ上がるとは信じられなかったというのが正直なところだ。お前なりに考えがあって八丁堀に近づいたんだと俺は何度も芽生えた疑念をねじ伏せ、自分に言い聞かせてきた。だが、俺の危惧は満更外れちゃいなかったんだな」
「兄さん、私」
口を開きかけた結衣に、嘉助が鋭い声を放った。
「黙って最後まで聞け。良いか、お前は色仕掛けで男を欺けるような女じゃねえ。それだけ知ってれば、お前があの同心をどう思ってるかなんざア、銭勘定をするよりは容易いさ。結衣、よく聞いてくれ。お頭はむろん徳市おじさんもまだこのことは知っちゃいねえ。二人共にお前のことを信じてるんだ。恐らくだが、他の仲?も気付いちゃいねえだろう」
俺はたまたま、お前のことが気掛かりでしようがなくて様子を探っていたんだ。
しまいに嘉助は溜息混じりに言った。
結衣は弾かれたように顔を上げた。
「お願い、兄さん。おとっつぁんに今度のお勤めは止めるように言って」
嘉助が絶句した。
「お前、何言って―」
「美濃屋の旦那さまも内儀(おかみ)さんも良い人よ。特に阿漕な商いをしているわけではないの。あそこにはまだ幼い子どもと生まれたばかりの赤ン坊もいる。無理にそんなお店を狙わなくても、他に大店はたくさんあるはずでしょ」
嘉助が唸った。
「結衣、俺たちは義賊というわけじゃねえんだぜ。美濃屋が阿漕な商いをしてるかどうかなんぞ、拘わりのねえことだ」
結衣はなおも嘉助に取り縋った。
「でも、でも! できないわ。あんなに良い人たちを裏切るような真似はできない。最悪の場合、美濃屋の人たちは殺されるかもしれない。私にそれを黙って見てろというの!」
「お前、情にほだされちまったな」
嘉助が愕然として結衣を見つめた。結衣は泣きながら嘉助に訴え続ける。
「ねえ、今からおとっつぁんのところに行くわ。おとっつぁんに事情を話して、美濃屋に押し込むのは止めてってお願いするの」
嘉助が怒鳴った。
「馬鹿なことを言うな。それが何を意味するのか、お前、判って口にしてるんだろうな。裏切りは一味のご法度、秘密を知った者は消されるぞ」
「―」
嘉助の襟元を掴む結衣の手が大きく震え、離れた。嘉助は結衣の顔を覗き込んだ。
「むろん、お頭は手塩にかけて育てたお前を殺すようなことはしねえ。けど、徳市おじさんはどうかな? いや、百歩譲って徳市おじさんも眼を瞑ったとしても、他の大勢の手下が黙ってやしねえぜ。そうなりゃア、手下の手前、お頭も徳市おじさんもお前に相応の処分を下さなきゃならなくなる。お前は育てて貰ったお頭にそんな無情な真似をさせるつもりかい」
「だったら―」
どうすれば良いの? と言いかけた結衣の言葉に覆い被せるように嘉助が言い放った。
「だったら、どうする? お頭をあの男前の八丁堀に売るってえのか? 般若の喜助がここにいますって、お頭の許に連れてゆくのか?」
嘉助が結衣の両手首を掴み、グッと引き寄せた。いっそう顔を近づけたその体勢でだめ押しするように告げた。
「赤ン坊のときから実のてて親同様に育ててくれたお頭を裏切るのか? それがお前にできるのか」
結衣の愛らしい顔が瞬時に凍り付いた。嘉助が更に顔を近づけ、殆ど唇と唇が触れそうな場所で囁いた。
「俺はお頭と同じだ、お前を信じてる、結衣。良いか、お勤めはかねて知らせてあったとおり、今月の二十六の日だ。その日は子ノ刻(午前零時)を過ぎたら正面の大戸の鍵はもちろん、美濃屋のすべての錠前を開けておけ。俺たちは二手に分かれて正面とそれぞれ勝手口から入る」
極限まで近づいた唇はついに触れることなく、スと離れた。
「―」
身を強ばらせている結衣に、嘉助が近づいた。その肩を宥めるように叩く。
「大丈夫だ。般若一味は無闇に犯したり殺したりする無法者の集団者ねえ。よほどのことがなけりゃア、美濃屋の連中を手に掛けることはねえだろう。俺たちは、くちなわの伊助とは違う」
?くちなわの伊助?の名に、結衣は大きく身体を震わせた。先刻、見たばかりの無残な光景がまざまざと眼裏に甦る。
次々に運び出される亡骸。見守っていた群衆から洩れ聞こえたすすり泣きや念仏の声。更には両親の骸に取り縋って泣きじゃくっていたまだ幼い姉妹。
それらが次々に瞼に点滅し消えていった。
「それから、くれぐれも言っとくが、あの同心にはこれ以上近づくな。どうせお勤めが無事に済めば、二度と逢えなくなる男だ」
引き込みを勤めた女はしばらく江戸を離れることが通例になっている。やはり万が一、江戸にいて顔を見知った者に遭遇して怪しまれてはならないからだ。美濃屋のお勤めが終われば、結衣もまたその例に洩れず、ほとぼりが冷めるまで江戸を離れることになるだろう。
そのときは嘉助を伴にと喜助が言い出すかもしれない。それは事実上、嘉助と夫婦となっての旅になるはずだ。
嘉助を嫌いであるはずがないが、嘉助への?好き?は今も変わらず兄に対する親愛の情に近いものだ。結衣が添い遂げたいと願うのも今生でもあの世でも、ただ一人しかいない。
結衣の涙に濡れた瞳に、紋付き羽織着流しの端正な風貌の若い男が浮かんだ。ひっそりと涙を流す結衣の傍に、嘉助の姿はなく、かき消すようにいなくなっていた。
ただ川のほとりの霞み桜だけが冬の寒風に吹きさらされているだけだった。
北山源一郎から兄夫婦に引きあわせたいと申し出があったのは、嘉助の警告を受けた数日後である。その日は師走の十五日、般若一味が美濃屋に押し入るまで、既に十日余りとなっていた。
その後も結衣は自分の立ち位置を決められないでいた。今の彼女は明らかに引き込みを続けることに迷いを抱いている。けれど、引き込みを止めることは即ち、父喜助を裏切ることになる。
そこまで考える度に
―お頭をあの男前の八丁堀に売るってえのか? 般若の喜助がここにいますって、お頭の許に連れてゆくのか?
嘉助の凄みのある声が耳奥でまざまざと蘇り、結衣は耳許を両手で覆った。
二つの応えの狭間で、結衣は次第に極限状態に追いつめられていった。
「―いどの。結衣どの」
少し焦れたような呼び声に、結衣はハッと我に返った。
「申し訳ありません」
眼前の臈長けた貴婦人に深々と頭を下げる。結衣の前に端座しているのは、髪を島田にきっちりと結い上げ、鶯色の地に雪花模様を金糸銀糸で散らした豪奢な着物を纏った女人である。